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[報告] 水沢高等学校関東地区同窓会総会 特別講演会から(聴講記録)

 (記録者)関東地区同窓会 副会長 運営委員長 工藤康博

 

日時:平成27年11月7日(土)11:30~12:30

場所:東京グリーンパレス

演題:「明治神宮―100年の森づくりの歴史と未来―」

講師:今泉宜子(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)

 

今回の特別講演は、水高平成元年卒業の今泉宜子さんにお願いしまた。                       今泉さんは、現在、明治神宮国際神道文化研究所主任研究委員として、明治神宮の歴史を研究され、英国はじめ欧米に発信し各国研究者との交流により、明治神宮と日本文化への国際理解の広がりに努められています。

明治神宮は、2020年、2回目の東京オリンピックの年に鎮座100年を迎えます。        今泉さんに、明治神宮が歩んできたこれまで100年の歴史と、そしてこれから100年の未来にむけた取り組みについて、語って頂きました。初詣や折々の参拝、菖蒲園の拝観など、機会あるごとに訪れる明治神宮ですが、この講演で、その成り立ちや造営に携わった多くの人々の思いを知ることができ、さらには今後の明治神宮の果たす役割も知ることができました。    以下は、講演を聴講した記録です。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后の御霊をお祀りするお宮として大正9年に創建され、御霊を祀る鎮守の森の「内苑」と神宮球場や絵画館などスポーツ芸術文化施設がある「外苑」、  そして、参拝のための「表参道」、内苑と外苑を連絡する「裏参道」などが一体の神宮空間として造営されました。   現在、多くの人で賑わうお洒落な街並みから、「表参道は明治神宮の参道」だと知らない人々も多いようですが、「神宮の空間」なのです。

この明治神宮の形態は、渋沢栄一ら在京の民間有志の提案で、「帝都東京にふさわしい品格ある神社を、民間の力で造りたい」という強い思いにより造営されたそうです。                 渋沢らは、明治天皇崩御の後、僅か20日間で神宮の計画案をまとめ上げました。その中で、内苑(神社)は国費で、外苑は民間団体(明治神宮奉賛会)の募金活動によって建設することを提案。さらには、現在の位置に造営することを提案して実現を見たそうです。

渋沢栄一らの「明治神宮」への強い思いは、竣工なった外苑を明治神宮に奉納する際、宮司に宛てた書状の中にしたためられているそうです。「外苑」は多くの国民の報恩によって、明治神宮に奉献されたもので、単なる憩いの場である上野、浅草などの公園とは、その性質を異にするとの一文があるそうです。外苑は公園でなく、社殿を擁する鎮守の森「内苑」と「外苑」が一体となった明治神宮そのものと説いているそうで、外苑の位置付けやあり方への思いとともに、将来の外苑のあり方を考えるうえで重く大きな指針が記載されているそうです。

現在、原生林であるかのように鬱蒼とした鎮守の森、実は人工の森なのです。この森づくりを先導したのは、当時を代表する林学者・東京大学教授 本多静六らの林学者でした。中心になった本多は、明治の早い時期にドイツに留学し、林学を学び、その知識を活かし日比谷公園など日本各地に公園を造ったそうです。 本多ら林学者は、遠くに見える煙突から立ち上る煙に、将来の都市化による大気汚染を予見していました。大気汚染に耐え、人手を加えず自然に世代交代する林相を想定し、神社林にふさわしい杜づくりを目指し、50年、100年、150年と森の推移を想定し樹種の選定と林苑構成計画に取り組んだそうです。植えられた樹木は全国から寄せられた10万本の献木によるものだったそうです。先年、鎮守の森の調査が行われましたが、それまで三度行われた毎木調査と比較したところ、概ね、本多ら林学者の想定通りに森の林相が推移しているとのことであり、改めて当時の林学者の叡智が窺えました。ただ、本多らの時代では予測できなかった「ヒートアイランド現象」による土壌の乾燥により、土壌生物の個体数の減少など、森の環境にも変化の兆しが出始めていると聞き、今後の推移が懸念されます。

さらに明治神宮造営を語る上で、大きな力として挙げなければならないのが、延べ10万人にのぼる全国青年団の勤労奉仕だそうです。全国青年団による造営奉仕運動に1道3府43県にわたる計209の青年団が、内苑のみならず外苑の造営工事にも携わり、その奉仕期間は4年に及んだそうです。さらに加えるべきことは、明治神宮造営工事に奉仕した青年たちが、その活動を記念して、のちに1人1円運動を展開して資金を集め、外苑の「日本青年館」が建てられたことです。

水沢の三傑のひとり後藤新平もまた明治神宮造営に係わっていました。内務大臣と東京市長の時に、副総裁及び評議委員として、明治神宮造営局に参画していました。明治神宮造は「明治神宮コンプレックス」ともいえる複合的な空間を創造する一大プロジェクトでしたので、そこには鎮守の森を造る林学はもとより、建築、造園、都市計画等、さまざまな専門知識や技術が求められ、当時の各分野のリーダーとなる学者や技術者が集められていたそうです。

大正12年9月1日の関東大震災発生。ご存知のように、後藤新平は復興院総裁として震災復興事業の先頭に立つのですが、そこに集められたのは、本多静六をはじめとする、これら各分野の専門家だったのです。彼らは、「復旧ではなく復興だ」との後藤の強力な指揮のもと、それぞれの分野で新しい試みを行いながら、道路や公園の整備、同潤会アパートのような新時代の住宅の整備など、先導的・先進的な復興を行ったそうですが。これも、後藤新平と明治神宮との縁によるものと言えるでしょう。

年間約一千万人の参拝者あり、近年、若者や外国からの参拝者が大変多くなっているそうで、このように文化や世代をこえて、どのように歴史を未来へと引き継いでいくのか、明治神宮の100年を振り返り、今泉さんは「まさに明治神宮は、(造営)当時の国民の思いが結集した、『まごころの森』であった」そして「(これからの)100年は、日本の文化・伝統を正しい表現で国内外の方々に発信していくことは、明治神宮自身の役割としても一層重要になってきいくでしょう」と語られました。

最後に今泉さんは「5年後の鎮座100年。時の巡り合わせの偶然か、その平成32年、2020年は、東京オリンピックの年でもあります。東京で迎える二度目のオリンピックの年、内外苑もまた国内外からたくさんの方々をお迎えすることになるでしょう。そのとき、まさに代々木の杜がひとつの中継基地として、たとえば100年のお宮から1200年のお寺へと世界からの旅路をいざなえるような、世代をこえ、文化をこえ、そして宗教のちがいをこえた『よりどころ』となることはできないだろうかと夢見てもいます。いのちに満ちたこの森で、目には見えないけれど『いますが如く』、神様を大切にまつる100年のレガシー。その心の遺産を、世界からお迎えするたくさんの方々にお伝えすることこそ、私たちができる本当の『おもてなし』かもしれません。そのための努力をこれからも重ねて参りたいと思います」と結ばれました。

                                          以上

本稿は、聴講記録メモから書き起こしたものです。講演に関連して明治神宮の造営について詳しくお知りになりたい方は、今泉さんの著書 『明治神宮 伝統を創った大プロジェクト』 (新潮社)をお勧めします。