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水高
蝦夷と大和






1. 田村麻呂と松   |づもな||戻る|
 アテルイが紀古佐美を、四丑(北上川沿いの地名)の付近でやつけてから、六年ほど経った延暦十四年に、坂上田村麻呂はまだ征夷副将軍だったそうだが、佐倉河(水沢)の付近の、蝦夷を征伐に来た。本当は前年のようだが、その辺は(昔話なので)いい加減さ。
 ところが、ここでも田村麻呂は苦戦する。蝦夷達があまりに強くて、なかなか勝てなかった。ことにも悪路王と明石高丸というのは、手強かったようだ。
 田村麻呂は、大変信心深かった。胆沢へ攻めて来る度、あちこちに神様を連れて来たらしく、この時も、一寸八分の毘沙門天のおかげで、悪路王と高丸をば、征伐することができた。
 そして、明石高丸は、大きな松の木の根の付近に埋めて、その傍らに田村麻呂は、お堂を建てた。自分の持ってきた毘沙門天に、戦に勝ったお礼だろう。
 だが、四天王と言うから、北の守り神の、毘沙門天だけではだめだろうと、その外にも持国、増長、広目の三社を作ったそうだ。その三つのお堂は、今、何処にあるか不明だが、毘沙門堂だけは、佐倉河の松堂に残っている。
 「松堂」という地名も、明石高丸が埋められた松の木と、坂上田村麻呂が建てたお堂と、合わせて付けられた名前だ。

2. 田村麻呂と鶴   | づもな||戻る|
 坂上田村麻呂が、蝦夷を征伐しようと、金ケ崎あたりまで来た。すると、そこにも悪路王や赤頭という、とんでもなく、強い蝦夷の親分がいた。
 田村麻呂は、兵士を連れて、いざ敵陣へ突撃しようとしたら、急に太陽に雲がかかり、ヒョーヒョーと、風が吹いてきたと思ったら、一瞬の内に、台風を三つ程、一緒にしたような、大風が吹いてきた。
 その風の中に混じって、太いブナの木や、人の頭よりも大きな岩など、ドカドカと飛んできた。田村麻呂軍も、どうにもならず、兵士達は、熊笹の根に掴まってみたり、杉の木の根元に、しがみついたりして、べたっとなったまま、動けなくなった。
 ところが、田村麻呂将軍は、懐に、熊野神社のお札を入れて来た。三本足の烏札握って、力強く折ったら、すぐに風が止んで、雲の切れ間から、太陽が見えてきた。そして、田村麻呂の前に、鶴が舞い降りてきた。烏が鶴に化けたんだろうか?
 そのおかげで、田村麻呂軍は勢いづいて、悪路王と赤頭を退治した。熊野神の神通力は、ありがたいものだと、田村麻呂は鶴が舞い降りた所を、鶴ケ峰と名付けて、熊野の神様を祀った。鶴の足は、三本(八咫烏)ではなかったろうな?

3. 田村麻呂と楡   |づもな||戻る|
 征夷大将軍の坂上田村麻呂が胆沢城を造営してから、十二〇〇年になるが、胆沢城の周辺には、田村麻呂の話が、たくさんある。
 水沢市の天然記念物に指定されている、一本木の瘤楡もそうだ。一本木の名前(地名)も、そこから出たというが、いくら長生きといっても、一二〇〇年以上になった木ではないと思う。
 平安時代の初め頃、その楡の木は、胆沢城から見えたそうだ。田村麻呂の居た頃は、一本木の付近は、とてつもなく広い牧場だった。
 あの頃は、朝廷軍も、アテルイ達も、馬が、戦車か戦闘機のようなものだったろうから、馬は、貴重なものだった。それで田村麻呂は、もっと北の方の、蝦夷も征伐しなければならなかったから、たくさん馬を育てていたらしい。
 その牧場の目印になっていたのが、一本木の瘤楡だった。昔から、岩手は馬産県と言われているが、いったい、元の馬は、何処から来たんだろう?
 ところで、犬っこ、鶏っこ、猫っこ、馬っこと言ってるが、どうして「牛」だけ、牛っこと言わず、ベゴと言うんだろう? 私はロシヤ語など知らないが、バイカル湖のあたりでは、牛のことを「ベク」と言うそうだ。だから「ベゴ」は、そっちの方から来たらしい。
 アテルイ達の馬も、そっちの方から来たのだろうか?

4. 田村阿波守   |づもな||戻る|
 アテルイや人首丸の話は、飽きただろうが、これ又、いろんな話があるものだ。なにしろ昔話だから、本気にしてはダメだよ。
 桓武天皇は蝦夷征伐だと、大変経費をかけて、こっちの方へ何度も何度も、攻めて来たが、将軍になって来た大将も、ピンからキリまであった。
 アテルイを、都まで連れて行って、その後に、又、田村麻呂が来た。田村麻呂は次々と攻めて行って、種山(江刺市)の麓に陣取り、手強い大岳丸と戦った。
 なんと、大岳丸を、やつけるのに、八年もかかった。年代が合わないのは、それ、昔話だもの。大岳丸はそ
れほど強かった。
 やっと田村麻呂は、大岳丸を、梁川(江刺)から土沢(東和町)の方へ、追い払ってやったというが、大岳丸の子の、人首丸の首は刎ねた。それで人首という町の名前になったとも言う。大岳丸の方は、土沢で死んだということになろうが、東和の小山田に、アテルイの片腕のモレの墓がある、というのと、同じで、なんだか怪しい話だ。
 ところで田村麻呂は、八年も種山の麓の周囲で、もたもたしている内に、その辺の娘と親しくなって、女の子を産ませた。蝦夷の女性だったろうか?
 その娘が、年頃になって、玉里(江刺)へ嫁に行ったら、そこの家では、田村麻呂にあやかって、苗字を「田村」と変えた。

5. 人首丸   | づもな||戻る|
 坂上田村麻呂が、胆沢城を造ってから、今年は、千二百年というが、田村麻呂は、桓武天皇から、節刀を授かり、蝦夷征伐にやって来た。阿弖流為達をやつけてから、今度は、江刺の蝦夷を、やつけようと、足をのばして来た。
 種山ケ原の物見山と五輪峠の聞に、大森山があって、そこには大きな岩穴と、「鬼の墓」と言う、大きな石も建っている。墓石の宇などは、見えない。田村麻呂が攻めて来たという時、米里(江刺・ヨネサト)あたりの大将の人首丸は、その大森山の岩穴に、立て籠って戦ったそうだ。
 人首丸も、なかなか強くて、田村麻呂もだいぶ手こずったらしい。そこで田村麻呂は、阿弖流為達の奇襲戦法を真似て、田村麻呂の二人の部下が、苦労して、なんとか人首丸の首を、もぎ取ってきた。
 その首を、運んできて、田村麻呂に見せたら、なんと、京の都にもなかなか居ないような、十五、六の美男子だった。ところが、この人首丸は、阿弖流為の弟だとか、下半身が無かったなどと、いう話もある。
 都の連中が、二言めには、蝦夷は野蛮で、汚いと言う。ところがなんのなんの、今でもそうだが、千二百年も前から、この辺には、案外いい男や、可愛い女の子が、たくさん居たということだ。

6. サとア   |づもな||戻る|
 寒い季節が過ぎて/桜が咲いたら/酒盛り始まる/股引袴で/代掻き口取り中なのに/肴を下げて/さっさと呑みに行く。
 いつの時代にも、旦那様は、ろくに働かず、遊んでばかりいたものだ。
 早乙女/さっさと苗植えて/田植えが終わった祝いでは/酒も呑んで/騒いだ挙句に/盃なども/ぶん投
げる。
 日頃のうっぷんを晴らしたり、旦那様達の悪口など、温泉に入って言ったんだろう。この辺の春は、「サ」から始まるが、馬の口取りどころか、股引袴を背広に着替えて、トラクターで田掻きだ。早乙女の指は、乗用六条植えになった。厩で、トラクターが「モー」とか「ヒヒーン」と鳴くだろうか?
 ところでアテルイという男、何処に住んで、百姓をしてたんだろう。アテルイと言うくらいだから、安土呂井、跡呂井(水沢の地名)だろうと言うが、いや、安久戸(地名)も近いし、姉体(地名)も捨てられないときた。この話、八十八歳になる姉体の爺から聴いたが、八十八夜も過ぎて、アヤメが咲き、梅雨明けも近い。
 この爺から、もう一つ聴いた話で、昭和二十八年の区画整理の前まで、姉体の水ノ口前に、「えぞっ子」という地名があった。千二百年も前の、アテルイの頃の名残りかな?

7. 鶴舞城   |づもな||戻る|
 昔はこの辺にも、たくさん鶴が飛んで来た。「鶴は千年、亀は万年」と言うくらいだから、縁起がいい。それだけじゃない、鶴には不思議な力もあった。
 源頼義と義家が、衣川に攻めてきた。前九年の合戦だ。安倍頼良(後頼時)の伜の貞任は、なかなか賢かった。衣川の館を造る時、その館の下に穴を掘り、一羽の鶴を、生き埋めにした。
 八幡太郎義家達が攻めてくると、安倍の兵士達は、皆館の中へ、慌てて入ってしまった。ここぞとばかりに義家は、「それ! 一挙に、攻め落とせ! 矢を射掛けよ! 火矢を放て!」と、もう勝ったものと思って、勢いづいて、安倍館へ攻め登った。
 ところが、いくら弓を引いても、火矢を飛ばしても、なかなか、館まで届かなかった。何故だと思う? 源氏の矢が飛んで来るたび、安倍の館では、まるでからかうように、フワッフワッと空に舞い上がったりした。鶴が埋まっていたからなそうだ。
 これでは、いくら攻めてもダメだと思った義家は、どんな事をしたら、衣川の館を落とせるかと、考えた。男振りの良かった義家は、これまた美女の貞任の妹を、誘惑して、とうとう館が空に浮かばぬ方法を掴んだ。
 それで安倍館は落ちたが、いい男や女には、時々落城するものだ。

8. 納豆発祥の地   |づもな||戻る|
 秋田県大曲市の、羽州秋田街道、今なら国道一三号線沿いに、「納豆発祥の地」と、大きな看板があるの、見たことがあるが、違うよ! 私らの胆沢が、本当の納豆発祥の地なのだ。
 源頼義、義家の親子が、衣川の安倍一族を、滅ぼそうと攻めてきた。ところがどっこい、安倍頼良(頼時)も伜の貞任も、なかなかしぶといもんだから、そう簡単には、やつけられなかった。
 源氏軍も、時には、安倍軍のお情けで、見逃して貰い、助かったり、秋田の清原一族に、「応援してくれ」と、泣きついたりした。
 どうして安倍の兵士は、強かったのだろう。いくら最後には、厨川で負けたからって、とてつもなく、粘り強かった。その訳は、いろいろあろうが、何と言っても食い物だった。
 前九年合戦が、始まる前の年から、胆沢の地は凶作で、安倍軍の兵士達は、仕方なく、豆を食べて頑張っていた。なにしろ長い合戦だったから、安倍軍も次第に、食糧に苦労した。
 糒も、豆も無くなった頃、一人の兵士が、もったいないからと、大事に背負っていた残りの豆を出して見たら、糸を引いていた。食べてみたら美味しくて、力も出た。それが納豆の始まりだ。
 元祖だ、本家だと言うが、九五〇年も前の合戦の時の、衣川、が、納豆発祥の地ということになる。

9. 秋田杉   |づもな||戻る|
 今から九五〇年も前の話だ。源頼義達や、義家達が、こっちへ攻めてきた。「前九年の合戦」が始まった。都の連中は、この辺に住んでいた、私達の先祖に、「蝦夷」だ「悪路王」だのと呼んだが、なんのなんの、ずいぶん教養もあったのだ。
 衣川の一首(歌の一首の意)坂、落ち延びて行く安倍貞任に、源義家が「衣の館は綻びにけり」と歌を掛けたら、貞任は「年を経し糸の乱れの苦しさに」と、まるで百人一首で、戦をしていたようなものだった。
 だが義家は、なかなか、貞任を討てず、神に祈って、貞任の逃げて行く先に、紫の雪を降らせた。黄砂混じりの赤い雪ではなかった。それでも義家は、追いかけられなかった。だって雪道ならこっちのものさ。
 貞任達は途中で、杉の枝で、カンジキを作って、秋田の方へ逃げた。秋田分に入ったら、紫の雪も止んでいたので、一休みして、貞任の兵士達は、カンジキをその辺に捨てていった。
 九年経って、盛岡の厨川に陣取った貞任軍も、とうとう敗北するが、先に秋田に脱ぎ捨ててきたという、杉のカンジキ、いつの間にか、新芽が出て、みごとな杉林になったという。
 秋田杉は有名だが、元は貞任達のカンジキから、育ったのだ。

10. 白糸姫   |づもな||戻る|
 金ケ崎の城内や、諏訪小路などには、昔の武家住宅が、たくさん残っていて、平成十三年に、「重要伝統的建造物群保存地区」と、長い名の国指定になった。
 一〇五〇年ほど前に、前九年合戦があり、安倍頼時が、流れ矢に当ったというので、船に乗せて北上川を下ってきた。とても衣川まで行けそうもないというので、息子の宗任が居た金ケ崎に運びあげた。それが諏訪神社のあたりで、結局、頼時は鳥海柵で死んだ。
 前九年合戦では、貞任も経清も殺されてしまって、清衡の母は、清原氏(出羽)に連れていかれるが、頼時の妻は、都合よく逃げたらしい。十五、六人の家来に守られて、伊手(江刺)の山の中に、ひっそりと隠れ住んでいた。この奥さんが、色白の美人だった。この頃は、女性は戦利品ぐらいにしか、考えてなかった。
 前九年合戦も終わって、頼時の妻の話を聞いた義家は、一所懸命に、その妻の行方を探した。どうやら、頼時の妻は、大変若かったらしく、白糸姫と名を変えて、隠れていた。
 それでも義家は、清原武則の伜の武貞に、清衝の母を後添えにしたように、自分の妻にはしなかった。白糸姫を探し当て、主人(頼時)所縁の金ケ崎に、立派な城を造って、そこに住まわせた。それで、金ケ崎の城は、「白糸城」とも言う。

11. 義家杉   |づもな ||戻る|
 永承六年に、陸奥守の藤原登任が、衣川の安倍頼良(源頼義と同音で頼時と改名)を、やつけようとしたが、宮城県の鬼切部で、安倍軍に負けた。すると朝廷は、今度は、源頼義を大将にして、攻めて来た。
 「前九年の役」と言うぐらいだから、十年近くかかる程、安倍軍が強くて、朝廷は手こずった。それに天も味方して、頼義と義家が攻めて来た時も、なんと長雨続きで、なかなか貞任や宗任を、攻められなかった。
 苦しい時の神頼みだろうが、頼義と義家は、水沢の日高神社の妙見様に、天気になるよう願った。すると丁度よく天気になって、そのお陰で貞任達の軍を、退却させることができた。
 雨が晴れて、太陽が高く昇ってきたから、日高の妙見と名付けた。とりあえず今日のところは勝ったというので、妙見様の前で、祝勝会の宴を開いた。
 酒も、ご馳走も、たくさん出ただろうし、唄や、一寸した踊りも出ただろう。ところが戦に来るのに乾飯や煎り豆などを持ってくるから、ご馳走が出ても、箸など無かったのだ。
 源義家は、その辺の杉の枝を折って、刀で箸を作って、ご馳走を食べた後に、その箸を、地面に差して、去って行った。それが(神社の)「姥杉」になった。

12. 米が滝   |づもな||戻る|
 前九年合戦で、安倍貞任や、その弟の宗任達は、教養もあって、頭も良かったという話は、沢山ある。
 平成十三年九月に、新幹線水沢江刺駅の真東にある羽黒山で、延べ五百人以上もの市民ボランティアが、発掘調査をした。羽田小学校の児童達も、移植ベラを持ってきて、体験学習をした。
 アテルイ没後千二百年の、前年だというので、発掘したが、アテルイの刀などというのは、出てこなかった。その羽黒山の神社から、西の先端の、発掘現場へ行く左側に、「米が滝」という、水の無い滝がある。
 そこで安倍貞任の話だが、前九年合戦で、源頼義、義家の軍勢が、どんどん安倍軍を押して来た。衣川から、羽黒山まで、退却してきた貞任は、「さて、どうして頼義、義家の軍を止めようか」と、いろいろ策をねった。
 やはり貞任は、頭が良かった。なにしろ昔から、胆沢、江刺は米どころなので、貞任は、集めれるだけの米を集めて、頼義軍が来るのを待っていた。
 敵の軍勢が、豆粒みたいに見えてきた頃から、貞任は、「それ! 幅広く、だんだん増やして、米を落とせ!」と、号令を掛けた。羽黒山の近くまで来た頼義軍は、驚いて、「なんと大きな滝だ。これでは攻められない!」と言って、戻ってしまった。このような滝の(同じ)話は、胆沢の蜂谷にもある。

13. 三十一文字   |づもな||戻る|
 前九年合戦の時、衣川の館が攻められて、追いかけてきた源義家が、「衣の館は綻びにけり」と、下の句
を掛けたら、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と、貞任は一首坂で返したというが、いくら先祖が「蝦夷の酋長」だとしても、都の連中は、いつもこの辺の人達を馬鹿にしてるんじゃないか?
 その貞任の弟で、宗任というのが、胆沢川の北、金ケ崎で鳥海柵を守っていたが、源頼義、義家の軍に、秋田の清原一族が、加担して、安倍一族は、どんどん北に追われて、とうとう厨川の柵で滅んでしまう。その時、宗任は捕まってしまって、都に連行される。
 宗任が都に連れて行かれた時は、春先だったのだろう。宗任を見下した公卿の一人が、庭の梅の枝を一本折って、「この花、何と言うのか、分かるか?」とでも言ったのか。すると落ち着いた宗任は、歌にした。 ― 我が国の梅の花とは見たれども/大宮人はいかにいふらむ ―
 公卿達も驚いた。野蛮で教養も何もない、田舎者と思っていただろうが、貞任にしろ、宗任にしろ、五七五七七が、さらさらと出る。宗任は、その後伊予へ流されるが、もっと遠くへ流さなければ危ないと思われて、大宰府まで流されたそうだが、北九州の方には、「宗任神社」というのが、あちこちにあるそうだ。

14. 金売り吉次の母   |づもな||戻る|
 上方のそのお姫様は、どんなに姿のいい若様と見合いさせても、「嫌です」の一点張りで、次第に年頃も過ぎていくので、父の殿様も、心配しきれなかった。昔は、親の決めた所へ、嫁に行った。まして殿様の娘ともなれば、敵の息子にさえ、政略結婚させられる。子供の内に、嫁(許嫁)にさせられたりもした。
 このお姫様の父も困ってしまって、安倍清明ほどではなかっただろうが、よく当る占師に見てもらったら、 「鏡をやるから、この鏡に写った男と結婚すればいい」と、丸い鏡を渡された。
 お姫様は、お城の中で、毎日のように、その鏡を見ていたが、男の顔どころか、さっぱり何も写らない。
 するとある時、広い雪野原や、雪の積もった、山々などが写った。
 お姫様は、殿様から許しを貰い、鏡に写った所は、何処かと、東の方を探して旅をして来た。鏡の景色と合わせながら、周囲を見て、雪の中、前沢の付近まで来ると、突然鏡に、働いている男の姿が写った。その男は顔を真っ黒にして、炭焼きをしていた。お姫様は、「この男のことだろう」というんで、これ迄のいきさつを話し、女房にしてもらった。
 その内に、男の子を生んだが、その子が大きくなって、金売り吉次と名乗った。お姫様の夫になったのが、炭焼藤太だった。

15. 弁慶   |づもな||戻る|
 前九年合戦が終わり、衣川の安倍氏が滅んでから、約一三〇年ばかりして、平泉も滅んでしまう。
 文治五年八月には、「黄金都市平泉」も終わってしまって、九月には、北へ逃げようとした泰衡も、味方の部下、河田次郎に殺されてしまう。三十五歳だった。
 秀衡に可愛がられて、本当なら、平泉の大将になっていたかもしれない源義経は、泰衡より四つほど年下だった。だが、さっぱりだめな泰衡のせいで、鎌倉の頼朝軍に攻められる前に、閏四月二十日、自害したというのが本当のようだ。
 ところが、義経は三陸海岸の方へ逃げて、津軽半島の先端から、北海道、さらに蒙古へ渡って、ジンギスカンになった(伝説)が、義経「主従」の「従」の方の弁慶は、どうなったんだろう。
 義経を助けて逃がそうと、一人で、何百人も相手にした弁慶も、いくら大薙刀を振り徊しても、飛び道具には、かなわなかった。北上川に注ぐ衣川(川の名)の下流の中洲で、四方八方から矢を受けて、しまいには、薙刀につかまって、立ったまま死んだ、ということになっている。
 この辺では、川魚を捕ってきて、串に差して焼き、その串のまま、ベンケイというものに差して、火棚(炉端の上の棚)のあたりに吊るしておくが、雑煮や煮付の、ダシにした。その姿が、立往生した弁慶に似ているので、「弁慶」という名が付いた。

16. 藩境   |づもな||戻る|
 伊達と南部の境を決める時、伊達の殿様は、南部の殿様に手紙を出した。―お互いに朝、城を出て、午の刻(お昼頃)に、出会った所を、境にしよう。日程は何月何日にしましょう―
 さてその日は来たが、二人の殿様がバッタリ出会ったのが、今の相去(北上市)だった。すると、南部の殿様が驚いて、「あれ! 伊達様は馬で来た。ずるいぞ!」と言った。すると、伊達の殿様はけろっとして、「どうして、南部様、あんたの方(国)では、牛で塩を運んだりするでしょうが、なんといっても南部は馬の産地でしょう? 私は手紙には何とも書かなかったし、当たり前に、馬で来ると思っていた」と言った。「だって、手紙を見ると〈牛〉と書いてた!」と、南部の殿様が言った。
 伊達様は知らん振りをして、(手紙に〈午〉の刻とは書いたが、〈牛〉とは書かなかったよ」ということになって、押し問答になったが、江戸から来た老中の立ち会いにより、そこが仙台と盛岡藩の境になった。
 今から三百六十年以上前の、寛永十八年のことだ。本当は、それから五十年も前の天正十九年に、境が決められていたが、境争いが続いていたのだ。
 金ケ崎の駒ヶ岳の頂上から、東に向かって、釜石の唐丹湾までが、盛岡と仙台藩の境になっていて、藩境の印の土盛り(塚)は、百二十もあった。

17. 高野長英先生   |づもな||戻る|
 水沢が自慢できる高野長英先生は、江戸時代の文化元年に生まれたので、二〇〇四年は「生誕二〇〇年」ということになる。
 長英先生は、医者になる勉強ばかりでなく、随分、いろんなことを勉強した。なんといっても「鎖国」などをして、世界中のことも解からないようでは、だめだというんで、目を大きく開けて見ろと言ったら、投獄されてしまった。
 それでも、そんなことで、勉強を止めたわけではなかった。政治のことばかりではなく、天文学や、漁業や、百姓(凶作)のことも心配して、『救荒二物考』などという本も出して、皆、餓死しないようにと。
 その長英先生は、やはりお医者さんだった。たぶん、牢屋から出て、全国を逃げて歩いていた時でもあろうか、仙台のどこかに寄った時、妊婦が大変苦しんで、死ぬんではないかというところに、長英先生が通りかかり、無事にお産をさせた。長英先生に助けられたと、その女の人は、死ぬまで、水沢の方へ、足を向けて寝ることはなかった。
 長英先生の書いた本に、『客中案証』というのがあるが、長英先生が長崎で勉強をして、広島などを通って来る途中で、いろんな患者を治療したことが書かれているそうだ。
 こうしてみると、いくらも助けられた病人や、西洋医学を教授された人達が、全国には沢山いたのだろう。もったいない先生を殺したのは、誰だったのか!

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