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水高
雪と農事

  1. 雪代水
  2. 雪形
  3. 馬糞
  4. 農神誕生
  5. 雪椿
  6. 田植地蔵
  7. 銭より心
  8. 麦搗節
  9. 褌予報
  10. 草刈んべ
  11. 壽庵の魔法
  12. 猫祭り


1. 雪代水   |づもな||戻る|
 昔は、飢饉が、ひんぱんにあった。
 ご飯も食べれず、大人も子供も次々に死んだ。
今、米が余ってると、贅沢言ってるが、(昔は)本当にひどいものだった。
 胆沢では、いっこうに米が取れないのに、秋田のほうでは毎年豊作だった。それを聞いた胆沢の人達は、収穫も無いから、皆で、ゾロゾロと秋田の方へ向かった。今なら、徳水園や、ひめかゆの方を通っていった。
 ところが、ヨラヨラと歩いていくうちに、雪が降ってきた。空腹だし、寒いし、峠まで行けず、街道に列をなして死んでいた。その上に、容赦なく雪がモソモソと降り積もった。
 それが春めいてくると、雪崩といっしょに、死体も沢から川へ落とされる。その内に、川の雪も溶けて、雪代水に混じった死体も、流されて来る。
痩せた死体が、流れて来るから、胆沢川のあちこちに引っかかっていた。気の毒なことよ。
 若柳(胆沢町の地名)の供養塚は、鎌倉時代の餓死者の塚で、石に梵字を書いて、柳塔婆を立てたら、根付いて、今のような大木になった。
春になると、胆沢川の猫柳が、飢饉で死んだ人の魂のように、ひかっている。

2. 雪形   |づもな||戻る|
 米の苗も、今ならビニールハウスの中で作る。
 昔は機械もコンピュータも無かったから、田畑の仕事も、自然のコンピュータに教えられてやった。雪虫が木のどの辺に卵を産むか、で、その年の雪の深さも分かった。
 西山(奥羽山脈)に、雪で「ハル」と、仮名で、書いてあるの、見たでしょう? 西山の雪形と言うのは、いろいろある。馬、の形や、鮒の形や、馬の蹄の形や、種蒔き爺だのと、いろんなのが見える。
 その内でも、南の方に出るのが、畚の形をしている。
その南端に出た畚が、種蒔き畚。その畚の形をした雪の中に、苗を三本ほど植えれるぐらいの隙間が出ると、種蒔きを始める。
 苗づくりも、種俵に籾を入れて、浸して、風呂に漬け、早く芽を出させようと、苦労した。今のように、科学的でもなんでもない。経験や、勘で、本当のプロだ。
 千二百年も前に、胆沢城を造った坂上田村麻呂は、遠くの方から百姓の兵隊を連れてきて、この辺に散居させ、米を作らせたそうだが、それから何百年も経て、山の雪が溶けるのを見て、農事暦のコンピュータを作ったのだろう。

3. 馬糞   |づもな||戻る|
 駒ヶ岳という山は、特に東日本に多くあって、馬の神様なそうだ。
 西山(奥羽山脈)の駒ヶ岳も、伊達藩と南部藩の境にあって、平安時代には、官制の神社だった。「延喜式内社」と言って、岩手県にも十四あり、その半分の七社は、胆沢と江刺にあるから、この辺はたいしたものだったのさ。
 水沢の駒形神社の奥の宮が、駒ヶ岳の頂上にあって、春になり雪が溶けてくると、馬の形に雪が残る。たまには、ぼんやりと春の山を見てみなさい。
 ところで、その馬の雪形に、面白い話がある。昔、駒ヶ岳の頂上に逃げていった馬は、南部の方の草ばかり食い、尻は秋田の方へ向けていた。
 誰でもそうなのだが、食べれば出るものが出る。その馬も、秋田の方へ尻を向けて排泄するから、秋田の方では、馬糞のおかげで、大変土が肥えた。有機農業だ。それで秋田では、いつも豊作だった。
 反対に南部の方では、草は食べられるし、土は痩せるし、いつも凶作になってしまう。南部の百姓には気の毒だが、神様は、殿様のことをちゃんと見ていた。
 百姓から絞り取れるだけ絞り取って、一揆も多いし、「資質に欠ける」殿様に、馬の神様も、罰を当てたんだ、と、いう。

4. 農神誕生   |づもな||戻る|
 春だから、猫だって、発情期になって叫んで歩くもの、一寸だけ男と女の話もいいでしょう。
 後藤壽庵より先に、胆沢川の水を引いて、開田した茂井羅と、似たような名前のシゲクラという、働き振りも男振りもいい若者が居た。彼に惚れたサワという娘も、美しい女だった。好き連れは泣き連れと言うが。
 サワの方が早く死んで、サワは死ぬ間際に、シゲクラの手を握って言った。「望みは叶わなかったが、二人で暮らそうと言った猿岩に、あなただけでも家を建てて住んでください」と。
 シゲクラはサワの遺言通り、猿岩に家を建て、サワの冥福を析って暮らしていた。シゲクラが猿岩に住むようになってから、胆沢は凶作知らずで、たくさん米が取れた。
 いつしか、シゲクラはこの辺の作神様として、崇められるようになった。猿岩の北斜面の岩の上を、春先の雪崩が勢い良く滑って、胆沢川の対岸まで飛んで行くと、豊作になると言う。
 昔は天明、天保だのと、この辺も凶作が続いた。猿岩の作神様に、助けて貰おうと、百姓連が願を掛けた。
今でも享保十二年の祠や、寛政十一年の額、天保二年の石燈籠などが奉納されて残っている。稲は「命根(イネ)」と、よく言ったものだ。

5. 雪椿   |づもな||戻る|
 猿岩の於呂閉志神社は延喜式内社で、明治の初めに胆沢川神社と合祀されて、今では於呂閉志胆沢川神社となって、若柳の土橋(胆沢町の地名)に祀られてる。
 今なら五月から六月にかかるだろうが、昔は猿岩の祭りと言えば旧暦四月十九日で、毎年豊作になるようにと、遠くの方からも参詣人が絶えなかった。今は四月二十九日が例祭になった。
 猿岩神社の傍から、椿の枝と、笹の葉とお札を貰ってきて、それを水□に差しておく。笹を馬に食わせたり、椿やお札は、水□に差しておくと、稲の病気を守り豊作になるというのだ。
 どうして椿に、ご利益があるのか知らないが、椿には十の徳があるそうだ。種類も何千種とあり、元来東南アジアに自生していたが、今では、世界中にある。
 ところが猿岩のユキツバキは、太平洋側の北限だ。日本の原種と言う。それで昭和四十四年に、岩手県の「天然記念物」に指定されたわけだ。今造っている胆沢ダムで、どうなるのかと思っていたら、ユキツバキも猿岩も助かることになった。
 昔下嵐や、市野々あたりの子供達が、猿岩に登って、椿と笹の葉を取ってきて、山まで行けない人達に、土橋の神社の前で売って、小遣を稼いだりした。

6. 田植地蔵   |づもな||戻る|
 笠地蔵の話はとこにもあるが、なんと言っても乗用田植機械があったわけでもないから、大変手間ばかりかかった。
 田植の前に、町へ笠を買いに行った爺様、帰りに俄雨にあたって、木の下で雨宿りをしていたら、雨に濡れている地蔵様達を見て 、「気の毒だなー」と思い、買ってきた笠をかぶせてやった。
 爺さまが、さ〜て家の田植だという朝、田に行って見ると、すでに田植が終わっていた。笠をかぶせて貰った地蔵様が、恩返しに田植をしてくれた。
 それで、よくよく田の中を見てみると、(田掻きで)馬の□取りをする子供のように、泥だらけになって倒れている男の子をみつけた。「なんと可哀想に」と、爺様は、その子になぞらえた地蔵様を作って、田の畔に祀った。
その田は、いくら日照り続いても、長雨でも、米が取れないことはなかった。地蔵田などの地名もあるが、昔は、信心深い年寄りが 、たくさんいた。
 地蔵様と言えば、小山や若柳には、顔のえぐれた不思議な地蔵様が、田の畔に立っていて、「鼻欠け地蔵」などと言ってるが、石の地蔵様はもっと人助けをしてる。その地蔵様の顔を削って飲むと、百日咳や、安産に利くというので、皆で削ったから、顔の無い地蔵様になった。

7. 銭より心   |づもな||戻る|
 間の悪いときは間が悪いもんで、忙しい時に限って、不祝儀だなんだと、続くものだ。
 田掻きも遅れて、今日こそと思っていたら、妻の従兄弟に不幸ができて、馬の口取りの手も無くなった。
仕方なく、一人で馬鍬を押そうとしていたら、どこの女の子か、馬の□取り竿を握って、にっこり笑って立っていた。
 何を間いても、ニッコリとだけ笑って、ものを言わない子だったが、猫の手も借りたかったから、そのまま手伝って貰った。
 「お昼だよ〜」と、声を掛けたが、その女の子は、居なくなっていた。お昼が済んで田に戻ってみると、その子は、馬の□取り竿を持って、ニッコリ笑って待っていた。
 夕方になって、「今日は、まずここまで」と思って、前を見たら、その女の子は、もう居なくなっていた。さて、明日はどうしたらいいもんかと思っていたら、次の日も同じように、その女の子が、馬の□取りをしてくれた。
 どこの子か知らないが、ご飯も食べさせず、手伝ってもらったんではだめだと思って、無理に手間賃を持たせてやった。おかげで田掻きも終わったと思って、次の朝、田に行ってみて驚いた。その田は、一夜で杉山になっていて、杉林の中に、銭を持った神様が、二ッコリ笑って立っていた。

8. 麦搗節   |づもな||戻る|
 胆沢の民謡と言えば、やはり「麦搗節」だ。米や麦など、電機で搗く前には、水車で搗いたりもしたが、ずっと昔は臼などで搗いていた。
 なにをするにも人の手で、いくら三世代だ大家族だと言っても、猫の手も借りたいところだ。ところが、昔は、隣の人はどんな人か、などということは無くて、皆で仕事も手伝う「結い」というのがあって、仲良くやった。
 麦搗きの頃になると、昼は自分の家の仕事をして、暗くなると「今夜は、どこそれの家の庭ですよ」と、夜業をしたもんだが、たまたまそこの家に、若い娘が居たりすると、昼の疲れなど忘れて、張り切った。
 だから、麦搗きの始めは、「麦搗きは楽だと思うだろうが/楽じゃない/どんな仕事にも楽があらばこそ」と唄うが、次第に疲れるし、眠いし若者達だから、「十七は柳の下で/芹を摘む/芹摘めば柳は寄りてからまるや」 「あまりに/容姿がいいというのが良いというのではない/心持ちや気立ての良いのがいいのだよ」などと唄って、頑張って仕事をした。
 そして歌合戦のように、次々と出任せに唄ったもんだから、この辺の地名や、評判になった事などが、歌詞になったため「麦搗節」は、何百番もオリジナルだ。
 百姓は、詩人だった。

9. 褌予報   |づもな||戻る|
 天気予報も、人工衛星やコンピュータなどでやってるが、案外当たらない時もある。
ところが、胆沢のある百姓の伜で、百発百中の天気予報士のような男が居た。
 百姓は常に、太陽と勝負だと言うが、田掻だ、田植だ、穂孕みだ、やれ稲刈りだというたびに、雨が欲しい、太陽が欲しいと、気に掛かる。
 「すると、明日はどうでしょう」と、その男の所へ、百姓達が頻繁に、聞きに来た。なにしろ百発百中で、その男は「明日は、カラリと晴れるでしょう」とか「いくらか雨模様でしょう」と、答えていた。
 百姓も良く分からず、頭も良くない、この伜は、どのようにして超能力者のように、ピタリと天気を当てるのだろうか、と思った父は、或る時、そーっと伜の部屋を覗いてみると、柳行李の中から、汚れた自分の褌を出して、「明日は、雨だな」と、独言を言って、部屋を出ていった。その後から父が、行李の褌を出して見ると、ぐしょぐしょに濡れていた。
 次の日、伜が、ボーっと出た隙を見て、父は、からかってやろうと、行李から伜の褌を出して、炉の灰をかけておいた。「寒くなったが、明日はどうでしょう」と、来た人に、伜は、「吹雪でしょう」と、答えた。

10. 草刈んべ   |づもな||戻る|
 昔あるところに、爺と婆が暮らしてた。若い時はよく働いた爺で、なにしろ、米もろくに取れないから、ひたすら炭焼きをしていた。
 ところが、その炭焼きで稼いで、四人の子供は、皆国立大学に入れた。この爺は、なかなかたいしたもので、炭焼きをしながら、窯の前に掛けた小屋の、柱を削って、歌を詠んでいた。炭のかけらで、五七五七七と書いている。一年に百も、歌を詠む。歌詠み爺だ。
 大学を卒業した娘が、東京から電子レンジなど送ってよこした。すると婆は、こんなもんで「焼く」もんじゃないな、やっぱり煮るにしろ焼くにしろ、炭が一番だと言う。本当に、そうだ。
 さて、爺と婆は、衣川の子育ても終わったし、今流行のエジプトの野菜でも植えようと、減反して、草ばかり成長した山の田へ、爺は鎌を持って向かった。
 婆は、今流行の全自動洗濯機などより、やはり家の前の流れ(小川)で、四角い堅い石鹸で、洗濯するのが一番と、流れの足場に、「どーれ」と、しゃがんだ拍子に「ボーン」と、おならをした。
 山の田で、鎌を握った爺が、その音を聞いて「さーて、クサ刈ろう」と言った。

11. 壽庵の魔法   |づもな||戻る|
 後藤壽庵が、伊達政宗の家来になって、福原(水沢の地名)の殿様になって来た。慶長十七年と言うから、今から三百九十年以上も前のことだ。アンゼリスというヤソの人が来て、見分森に登って胆沢周辺を見て、「アラビアの砂漠のような所だ」と言った。
 壽庵は、これではいけないと、人夫を使って胆沢川の水を引き、開田することにした。松明や、洗濯盥を使い、測量をして、堰を掘り姶めたが、次第にお金が無くなってきた。
 ところが、壽庵は、魔法も使った。誰にも悟られないように、畑の粟の穂を摘んできて、その穂に、息を吹きかけると、銭緡に化けてしまう。そして、人夫に手間賃を支払った。
 その銭緡を持って、人夫達は、魚や、古着などの買いものをした。商人達も、その銭緡で仕入れをしたりするわけだが、次々と銭が渡っていって、四人目の人に渡ると、壽庵の魔法が解けて、元の「粟の穂」になってしまう。
 さーこれは騙されたと、その銭を使った所をたどって行ったら、どうやら、壽庵の所へ辿り着いた。皆に判られてしまった時に、壽庵は、福原から、すでに居なくなっていた。
 元和九年の冬、壽庵の去った雪の上に、大判のような雪靴の跡が残ったろうが、それも吹雪で、消えてしまった。

12. 猫祭り   |づもな||戻る|
 山の頂上の方が白くなって、今年も冬を迎えることになったから、爺は一日おきに、山へ入っていた。一冬分の薪はすでに用意済だっだが、焚き付けになるような、芝木を集めに行っていた。
 するとある時、沢の上の方から、なんとなく祭りの囃しのような音が、風の途切れ途切れに聞こえてきた。
 「なんとこの寒いのに、山の中で三味線や太鼓を鳴らして、笛まで吹いてるとは、どんな奴らだ」と、沢伝いに登って行った。
 「この近くではあるまいか」と思って、静かに行ったが、枯葉や枯枝が、パキパキと鳴るし、行けど行けど、尾根をいくつか越えても、いっこうに賑やかな所へ、行き着かなかった。
 冬山の日暮れだから、爺は「一寸、覗いて見よう」と思ってるうちに、暗くなってきた。「こりゃいかん」と、芝木を背負って、爺は山を下りてきた。家に着くと、真暗になっていた。
 心配した婆に、夕飯を食いながら、「婆さん、俺は今日、山の中で、祭囃しを聞いてきた」と、話して聞かせたら、「なに、耳鳴りでもしたんでしょう」と、相手にしなかった。ご飯を食べ終わって、炉端でゴロリとしていたら、杉戸(台所と座敷境の戸)の猫くぐり穴に足を掛けていた猫が、「あー疲れた、冬山の祭りは、疲れるなー」と言った。

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