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第2回ゲスト 巨匠ルイス・カーンを紹介した建築家 工藤国雄氏

     2015/01/14  mizu_admin-karen   

<水沢高校から東京工業大学、米ペンシルベニア大学などに学び、20世紀最大の巨匠建築家ルイス・カーンの下で働き、彼の死(インドからの帰途ニューヨークのペンステーション駅のトイレで倒れ、身元不明のままニューヨーク市の死体収容所に収容されていた)の直後、その希有な建築家の実像を日本に伝えた>


 <工藤国雄氏略歴>

国家総動員令成立の年、小樽に生まれ満州に育つ。終戦の年、蒙古の近く吉林省林西市の国民尋常小学校に入学、8月ソ連参戦と同時に母と南下、北朝鮮38度線ギリギリの寒村で終戦を迎える。翌年父と再会、引揚者として帰国、北海道苫小牧市字沼ノ端で5年生まですごす。

その後、岩手県水沢市で水沢中学校、水沢高校を卒業。2浪。1963年東京工業大学建築学科卒業、同大学大学院で修士、博士。その後、ペンシルベニア大学に留学(同大学ウォートン・スクール地域科学科では同窓に紀子様のお父様、川嶋辰彦学習院大学名誉教授、元京大経済研究所所長藤田晶久京都大学名誉教授)、1970年~71年、ルイス・カーン事務所勤務の後、ハーバード大学、ブラウン大学、MIT(マサチュウセッツ工科大学)などに席をおき帰国。名古屋工業大学で10年間教鞭をとった後、1982年ニューヨークに移住。KPF(コーン・ペダーセン・フォックス)、HLW(ハインツ・ランバーグ・ウエラー)などニューヨーク大手設計事務所勤務の後独立。コロンビア大学建築学部で教鞭をとりながら、建築設計活動を続けた。


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(大分県国東半島姫島狐祭りで北海道大学の女学生と 2013)

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(広島県宮島厳島神社で修学旅行の女子学生達と 2011)

 

 

 

 

 

 

著書に「計画論」(’68年、’76年復刻)、「方法の美学」(’72年)、「建築の三つの魂」(’73年)、「私のルイス・カーン」(’75年、’90復刻)、「ルイス・カーン論」(’80年)、「講座:ルイス・カーン」(’80年)。訳書に「建築2000」(’74年)、「生態建築論」(’77年)、「建築の知の構造」(’80年)がある。

講座ルイスカーン     方法の美学     私のルイス・カーン


 工藤国雄氏とのインタビュー

 Q(山口光関東地区同窓会会長):工藤さんの書かれた「私のルイス・カーン」を読ませていただきました。たいへん感動したのですけれど「俺の人生は一体何だったんだろうか?」「在ったものはあった。在るものもあった。在るだろうものも在った。」― 非常に印象的な言葉が、プロローグにありましたが、今ふりかえってみて、ルイス・カーンの建築が残したもの、そして建築家を志す若者たちにとって、どのようなメッセージを発しているでしょうか?


 A (工藤国雄氏):私自身についてもカーンについても、今となっては「何をや語らん」です。『雲流れる果てに』とでも言えばいいでしょうか?『されど我らが日々』でもあります。変換を故意に間違えて『去れど我らが日々』です。カーンについて今の人に語るのは幾重にもむずかしい。その意味も必要もないように思います。「きれい」「かわいい」「おいしい」しか言えなくされた若者に実存の焼きゴテを押し付けることは酷なことではないでしょうか。(どうか今流の読み易い、食べ易い、機内誌文体に書き換えないで下さい。意味不明と不親切とゴツゴツと全ての間違いは<本文ママ>でお願いします。つまりそれが『私の』なので)(原文のママ)


  3・11は私にとっては『第二の敗戦』でした。これをきっかけにコロンビア大学で『伝統建築論(Traditional Japanese Architecture)』に加えて『戦後建築史(Postwar Japanese Architecture)』を教え始めたわけですが、今は戦前も加えて満州から始めます。自分の生きてきたままだからです。私が生まれたのは『国家総動員令』が発令された年(1938)で、その年のうちに満州移住でした。

 目の前は砂漠で朝夕、ラクダの隊が通りました。夕方になると、モンゴルの聖鳥カラスが空をうめつくし真っ暗になりました。よくあたり一面のケシの花のなかで羊を丸ごと焼いて食べました。戦時中なのに肉も卵も砂糖も豊富にありました。父はよく単発の飛行機で出張にでかけました。親は何を考えていたのでしょう? そして国民尋常小学校に入ったのが終戦の1945年でした。8月6日、南下するソ連のタンクの前方をバスと無蓋車を乗り継いで集団疎開しましたが、女子供だけの難民でした。ジフテリヤで毎日毎日子供が死にました。毎日がお葬式でした。そしてたどり着いたのが北朝鮮38度線ぎりぎりの寒村でした。着いた次の日が終戦でした。朝鮮の人々に守られて厳しい冬を越せました。それを迎えに来たのが毛沢東赤軍の列車で、今思えば一連の計画された奇跡のお陰で安東(現在の遼寧省丹東)で父と再会、地図にもない秘密の軍港コロトから軍船で佐世保に引揚げ、北海道の本家に身をよせることになりますが、そこに後に『十三人の刺客』を撮ることになる映画監督工藤栄一と俳優座舞台製作所のボスになった工藤和夫という従兄弟がいたことが、私が建築家になった遠因なのかもしれません。そしてそういったギリギリの『実存』が私を一歩一歩カーンへと導いたのでしょう。

 カーンは<美>を追求した芸術家ではありません。カーンは建築に実存的<真実>を求めたのです。だからこそカーンの建築は美しいのです。「建築は美しくならないようにすればするほど美しく成るから困る」とゆう彼の逆説です。


Q: 水沢高校から東工大建築学科へ進学したときの心境は。そしてその後、米国に留学、ペンシルベニア大学、ハーバード大学などで学ばれた経験について、思い出話も含め、教えて下さい。日本とアメリカの文化、生活体験の違いについてどう思いましたか? また当時の苦労話なども含めて教えてください。


 A(工藤国雄氏): 美術の岩田先生にかわいがられたので芸大に行こうと思い、後に上野の近代西洋美術館の館長になられた、芸大の佐々木英也先輩にお伺いすると、言下に「建築をやるなら東大か東工大に行きなさい」といわれ、東大は難ずかしいと思いこんでいましたから東工大にしたのですが、実際は数学も物理も東大の方が素直で易しかったのです。菱谷君や安倍君などの東大進学エリートグループには入ってなかったので、私の東工大合格は奇跡扱いでした。一級下の只野君(只野康夫氏、世界最大の設計事務所日建設計元専務)は東大確実だったのですが度団場で東工大に鞍替えしてしかも建築に進んだのは私の悪影響です。

 どうしてアメリカ留学かとなるとこれまた長い話になりますが、決定的だったのは受験の神様と言われた伝説の英語教官阿部庄さんに巡り会ったことでしょう。当時重度の肺病で胆沢病院に入院しておられましたが、喀血しながらの個人教授でした。当時どのような手段でか毎日ニューヨーク・タイムズをとりよせて読んでいました。その切り抜きを渡して「読みなさい」と言ったきり1時間でも2時間でも黙っていました。そして最後に「何か分かったかね」でした。

 当時はいろいろ極端に面白い先生がいて国語のタカリキ(高橋力)さんなんか受験最前線の3年の前期を全部使って『芥川の自殺について』なんてやって自殺の方法を一つ一つ真剣に教えるのです。そして後期全部使って涙ボロボロ流しながら『源氏物語』をやるんです。私をかわいがってくれた美術の岩田先生は飲み過ぎて胃に穴が空いて死にました。

 皆ぎりぎりの生身の人生を生きていてそれが凄く私にとって指針になりました。『生きる』とはこういうことなのだと教えてくれたのです。

 私の履歴書を見れば、東工大を出て、ペンシルベニア大学、ハーバード、MIT、ブラウン大学、コロンビア大学とアイビーリーグを渡り歩いているわけですから、凄い秀才ということになりますが、実際はその反対で不器用で全く何も出来ない人間だったのです。

 だから私に言えるのは、<計算する前に跳べ!>です。私がいろいろなことをやったのは結局その先にある困難が見えてなかったからです。頭にピストルをつきつけられたこともあります。そんな人間の処女出版が稿数3,000枚の『計画論』なのですから人生は皮肉どころではありません。これから人生を始める若い人々には「どうか計算しないで初めて下さい」といいたいのです。計算が終わったときには人生は終わっています。


Q:東日本大震災と津波、福島第一原発事故などの3・11を経験した日本で、あるべき建築のあり方とは? 20世紀がたの箱物志向ではなく、21世紀の日本では地域共同体、共生のための人々の暮らしに意味をもつような建築が求められていると思いますが、2020年の東京オリンピックに向けてどのような建築があるべきなのでしょうか?国立競技場の建て替え問題なども含め、ご意見を伺いたいと思います。


 A:(工藤国雄氏) 前の質問で答えましたが、3・11は私にとっては『第二の敗戦』でした。災害の3ヶ月後、6ヶ月後、9ヶ月後、1年後とアメリカの学生(コロンビア大学大学院)を連れて三陸、広島、長崎と歩き、日本がこの国難をどう乗り越えるのか、これまでどう乗り越えてきたのかを見せてきました。外国人の目から見れば、信じがたい復元力でした。混乱していたのは政府とメディアでした。個人レベルでは悲劇と苦痛は今も続いているでしょうし、国難は乗り越えたのではなく隠蔽したのかもしれません。しかし国民は為政者ではないのです。私は「上に政策有れば、下に対策あり」という中国人の生き方のほうが正解だと思っています。

 新国立競技場も上には上の(自分たちの)思惑があるのだろうと思いますが、下にはそれをどうする力もありません。好き嫌いは言えてもコメンテータの域を出られません。民主主義は幻想です。世界の何処にもありません。歴史にもありません。それがあるのは教科書と教室の中だけです。日本人は今も教室の中で教科書通りに生きている希有な民族と文明だと思います。今となっては世界でもっとも進んだ国です。国民の殆どが好きに成ろうにも好きになれない不思議な国でもあります。戦後の洗脳なのか、それとも日本歴史の構造的ネジレなのでしょうか?

 槇先生(建築家 槇文彦氏)には随分お世話になっているし、安藤氏(建築家 安藤忠雄氏)は友達だし、この二人が喧嘩したらどちらについたらいいのでしょう? それぞれの後ろにはそれぞれの軍団がついています。それに設計のザハ・ハディ(Zaha Hadid)は好きなタイプだし、イラク出身英国育ちの彼女には日本人には決してない異常な強さとひずみがあるのです。日本人には決して作れない(能力ではなくて執念)ものを作ってくれると期待していい。槇先生はザハ案のサイズと形と文脈を問題にしているけれど、槇先生ご自身の都の体育館が出来た時の異様感は尋常ではなかった。また幕張メッセも環境のコンテックスをぶち破るものだったし、結果としてそれが新しい幕張のスケールを生み出したのです。だからザハもサイズと形において東京がチンマリ納まらず次のスケールとダイナミズムを獲得する力になると期待しているのです。


Q: 水沢高校在学当時、影響力のあった先生はどんな人たちですか?思い出に残る先生がいらっしゃいますか?またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?


 A:( 工藤国雄氏): すでに述べましたが、水高だけでなく日本全体が『戦後』という教室だったのです。先に述べました早稲田を出て宮沢賢治に憧れて岩手の地を踏んだタカリキさんに加えて、社会科のタイガーや数学のシャッター(お名前失念)やドモリでハゲ(差別用語)の国語の鈴木先生(東大を出てドモリ克服ためNHKアナウサーを志願するも念願かなわず岩手県に都落ち)など皆とても個性的でした。ヒタッヒタッというスリッパの音が聞こえると泣く子もだまった化学の後藤五郎(椎名悦三郎の実弟)、「メタン、エタン、プロパン、ブタン、ペンタン、ヘキサン、————」と今も恐怖の暗記がよみがえります。まだ男子女子の教室が分かれていたころで、男子学生は高歯の下駄をはいて腰に手ぬぐいを下げ、高らかに「胸に描きし甘き夢、日々に破れて傷つける〜」と水高逍遥歌を唄って歩いたのです。

 もう一人強烈な印象を残した校長がいました。確か牟岐という姓だったと思うのですが、1年ほどの短い在任期間でしたが、全くの自然体で校長ぶらず管理者ぶらず冗談や愛嬌をふりまくわけでも高邁な理想をかたるのでもなく、ごく普通に壇上に立っただけで、講堂の全校生徒の気持ちが一つになって高揚するカリスマ性がありました。就任第一日から最後までそうでした。それがどういう事情か、突然辺鄙な田舎にひきこまれてしまわれましたが、場所は思い出せないのですが、私は汽車にのってとぼとぼ独り田舎道を歩いて是非戻って来て欲しいと言いに行きました。また新任の安彦校長の校長室にうかがい、あなたが降りて前任の校長を呼びもどして欲しいと進言に行ったり、私も今思うと信じられないおかしな生徒だったわけです


Q: 最後に、郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか?また水高の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?


 A(工藤国雄氏):北海道の沼ノ端というポイント交換駅の小さな町の分教所から来た私には水沢はとてつもない都会でした。沼ノ端小学校では私のクラスは7人とその上の3人の合併教室でした。ですから右総代と学芸会の主役は私と校長の息子の持ち回りでしたが水沢に来たら一学年が8クラスもあり、各クラスが50人もいるのですから、右総代はもちろん級長にもなれないのには驚きました。当時の私には水沢は文化薫る大都会でした。近くに高野長英や後藤新平や斎藤実の旧邸もあったりしてー

 東北全体についいえば、3・11のワークショップで仙台市長にお目にかかった時に「仙台の野心は何ですか?」と質問したら「仙台の野心は野心を持たないことです」とかわされて、さすが行政畑出身の政治家と感心しましたが、奥州藤原氏はここを<世界文明の中心>にしようと企んだわけですから、この壮大な夢を追うことが、国難克服の道であると工学博士の私は思ったです。エジプトの砂漠でなら黙っていてもミイラになれますが、この湿気の高い平泉でミイラになって鎮座してる三体がいらっしゃる。日本人ってスゴイとおもうのです。

 それをいうと、いやそれは日本原人ではない、全て渡来エリートがやったのだという声が聴こえます。この凄い連中を私は自分の出身の社会工学科にちなんで、日本の『歴史工学集団』と呼んでいます。日本の歴史を人為的に『作った』のです。神話から『作った』のですから徹底しています。社会工学どころではありません。とまれ以来東北は蝦夷の地、辺境として扱われてきたのですが、3・11で、突然『東日本』と呼ばれ『がんばろー』『がんばろー』と励まされ、東北は『地方』から『日本』に格上げ回収されたのです。とゆうのが遠く海外から見た日本のビフォー・アンド・アフターです。

 『日本沈没』かと全世界の同情をかって1年の喪中が済むや、『なでしこジャパン』の世界制覇をかわきりに、『神の国』のシンボルMt. Fuji(富士山)と日本の食文化、そしてここ平泉もユネスコの世界遺産に登録し、2020オリンピック獲得で王手をかけたのです。日本の神々と文化が世界最高の位置についたのです。世界のMemory Warsでは圧倒的勝者です。それもアメリカのようにいかにも覇者ぶってバンバン・ガタガタ・ギシギシやらず、音も無くクールにやってのけた。一昔前までは日本のナショナルカラーだった好戦的赤を韓国に譲って、自分は白ちゃけたライトブルーで非戦性を強調しています。これは圧倒的な総合潜在攻撃力を秘めなければありえない態度です。私にはなんとなく江戸幕府グロバル・バージョンとみえるのですがどうでしょうか? その自信はどこから来るのか?

  映画『博士の異常な愛情(Dr. Strangelove)』のモデルになったアメリカ水爆戦略立案者でガリガリのタカ派ハーマン・カーン(Herman Kahn)が1970年に『21世紀の覇者日本(The  Emerging Japanese Super State)』という本を書いています。そしてその第1ページに「覇者日本とその平和的手段に捧げる」とあるのです。これは立派な禅の公案ではないでしょうか? まさに「おぬし(偉人の町水沢の水沢高校の後輩よ)、その依りはいかに?」です。

(了)


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