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<輝く同窓生たち>第3回ゲスト 元雪印食品社長 小野寺武夫氏

     2015/03/20  mizu_admin-karen   

 第3回ゲスト 元雪印食品社長 小野寺武夫氏

 水沢高校から東京大学農学部農芸化学科卒業。雪印乳業(株)に入社し、同社から米コーネル大学大学院に留学、修士号を取得。雪印乳業常務、同社専務取締役の後、雪印食品(株)社長を歴任。翻訳書にマイケル・ポーターの「競争優位の戦略」(上下)「グローバル企業の競争戦略」(ダイヤモンド社)がある。   


小野寺武夫氏68歳のころ

 雪印食品社長時代

退職を目前にしたころの現役最後の写真

(68歳のころ)

 

小野寺武夫氏コーネル大学のジャーマン教授と

コーネル大学のジャーマン教授が来日した際に撮影

2人は1933年生まれで同年齢

(退職後の写真、70歳ころ)


翻訳書:

競争優位の戦略上

 

国の競争優位下

 

グローバル企業の競争戦略

 


  略歴:

 1933年  岩手県胆沢郡小山村に生まれる(現奥州市胆沢区小山)

1952年  岩手県立水沢高校を卒業、東大受験に失敗

       このあと2年間、働きながら受験勉強(浪人生活ではありません)

1954年  東京大学教養学部理科Ⅱ類に入学(高校卒業後2年かかりました)

1956年   同上  農学部農芸化学科に進学

1958年   同上  卒業、雪印乳業に入社

1968年~1970年 米国コーネル大学大学院で農業経済学を専攻,修士号取得

1989年    雪印乳業取締役

1991年   同 常務

1995年   同 専務

1997年   雪印食品 社長

2001年   同 退職 (43年間会社勤めをやりました)

  


 <小野寺武夫氏インタビュー>

 Q(山口光関東地区同窓会会長):

はじめに、水沢高校在学当時、小野寺さんに影響を与えた先生はどんな人ですか。

 A(小野寺武夫氏): 

私の生家は米作農家でした。ご承知のように米作は春に田植えをして秋には収穫を迎え、その米を売って1年の一家の生活費に当てるわけです。そのわずかな収入のなかから子供を都会の大学へ進学させることは考えられない事でした。私も高校の学費はなんとか出して貰えましたが大学への進学は考えてもみませんでした。在学中はもっぱら生徒会長をやったり、部活に熱中する毎日で大学受験の為の勉強はやってませんでした。

 ところが高校3年の秋に教頭の後藤五郎先生に呼ばれて、君の成績なら東大進学も夢ではない。金がないなら学校のほうで奨学金を用意するから、ぜひ東大を受験しなさいと言うことでした。寝耳に水とはこの事です。大学受験など考えても居なかったのでなんの準備もしていませんでしたが兎に角、次の春に東大を受験することにしました

 もちろん結果は落第でした。卒業後は働きながら受験勉強を続け2年目にやっと東大に入学することが出来ました。高校では約束たがわず奨学金を支給してくれましたので、大日本育英会の奨資金とあわせるとなんとか生活費を確保することが出来ました。

 社会人になってからは会社の費用で米国のコーネル大学大学院で勉強し修士号をとることが出来ました。

 無一文の高校生が東大、コーネル大学大学院と勉強を続けることができたのは後藤先生が背中を押してくれたお蔭と今更ながら感謝しています。

 話は変わりますが受験勉強の最後の一年は江刺の玉里中学校代用教員として英語と数学を教えました。そのときの教え子に只野康夫君という非常に優秀な生徒がいました。彼は水高卒業のあと東京工大で建築設計を学び卒業後は設計技師として数々の名建築を世に送りました。最近まで水沢高校同窓会の関東支部長として活躍していましたから知る人ぞ知る有為な人材です。

 水高にはもう一人忘れられない先生がいました。岩淵(卓郎?)先生という生物の先生です。先生は植物学に造詣が深く周りにある植物の名前は全部知っていました。休みの日になると我々生物班の生徒を引き連れて山野を駆け巡り植物の名前を一つ一つ教えて呉れました。この時から私は植物学のとりこになって今でも山野をさまよって植物の観察を続けています。私の人生に大きな影響を与えてくれた人物の一人です。

 Q: 水沢高校から東京大学農学部に進まれ、農芸化学を専攻された動機とはどのようなものだったのでしょうか?

 A:( 小野寺武夫氏)

 東大の農学部にはいくつかの学科がありますが、その任務は主として農業分野の技術官僚の養成です。その中で唯一民間企業の技術者を養成するところが農芸化学科です。私は官僚になる積りはありませんでしたから農芸化学科をえらびました。生物学と工学を結び付けて食品や酒類の製造に応用しようとする学問です。私は本来生物学が得意でしたから農芸化学科は私に打って付けの学科でした。

 Q: 東大農学部時代の学生生活の思い出はどんなものがありますか?

 A:( 小野寺武夫氏)

私が在学した昭和30年代は高度成長時代の始まりで技術者の求人は引っ張りだこでしたから就職活動を気にせずのびのびと勉強に専念できました。物作りはすきな道でしたから本当にのめりこんで勉強できた幸せな2年間でした。

 勉強のかたわら課外活動として東大5月祭の農学部実行委員長をやったり、穂積五一先生の主宰されるアジア学生友好協会の副会長をやったりもしました。穂積先生は生涯を通じて私に強い影響を与えてくれましたが、話せば長くなりますので他の機会にお話しさせて頂きたいと思います。

 Q:卒業後、雪印乳業に入社され、乳業にかかわるビジネスの道をずっと歩まれましたが、その仕事にはさまざまご苦労も伴ったと思います。雪印乳業に入られた動機や、ビジネスマンとしての思い出などを教えて下さい。

 A(小野寺武夫氏):

冒頭にお話ししましたように日本の稲作農家の大部分は一年一作で、年に一回しか現金収入が無いわけです。酪農業は牛乳を搾って会社に出荷すれば毎月一回の現金収入があります。そこで政府は酪農振興を大いに奨励しました。私も酪農振興の一環を担うために卒業後は迷いなく乳業会社に就職しました。

当時、高度成長期にあって牛乳・乳製品の需要は生産が間に合わない程のびました。作れば売れる時代が長く続きました。仕事の上で何の苦労もありませんでした。しかし1970年代後半になると、牛乳の需要が頭打ちになって生産過剰になりました。新製品を作ったり、新規事業に進出したりして、会社はなんとか成長を維持しました。こういう時代こそ腕の見せ所です。私も新製品開発や新規事業立ち上げに力を尽くしました。苦労といえば苦労でしたが働き甲斐のある時代でした。

しかし再び情勢が逆転して日本の酪農は生産不足に見舞われています。高齢化の為に労働のきつい酪農を止める酪農家が増えたせいです。これからは如何にして需要に見合った原料乳を確保するかが課題になります。また一苦労です。

 Q:1970年に米コーネル大学大学院に留学され、経営学を専攻されていますが、当時の米国滞在の思い出、心に残るエピソードなどがありましたら教えて下さい。

また乳製品ビジネスにかかわる中で、米欧との競争にさらされたご経験が深いと思われますが、マイケル・ポーターの「競争優位の戦略」や「グローバル企業の競争戦略」の翻訳をなさった経験も含めて当時の日米関係を振り返ってどのような感慨がありますか?

 A(小野寺武夫氏):

コーネルの大学院には世界各地から留学生が大勢集まって来ていました。殆どの学生が大学から奨学金を貰っていました。彼らの大部分は学位を取ると大学に残ってさらに研究を続けるか、米国の一流企業に就職します。故国に帰らずにいずれかの形で米国で生活する道を選びます。かくて米国には優秀な人材が蓄積されます。

 日本では海外留学生は日本で就職がむずかしいので卒業後大概は帰国します。日米のこの違いは強く印象に残っています。40年前に私が居たころコーネル大学にはノーベル賞受賞者がすでに40人以上もいました。いまではもっといるでしょう。世界中から優秀な人材を集めた結果です。

 印象深かった事は沢山ありますがもう一つ挙げると教育の仕方がすごく実務的なことです。経営学のコースをとるといきなり一人1000ドルの枠を与えられ株の売買をやらされました。一学期内に4回以上の売買をして儲けを競うわけです。損益の結果は学期末に公表されます。ウォールストリート・ジャーナルの定期購読も義務付けられました。日本なら日経を定期購読するようなものです。新聞を毎日読んでいるうちに自然とアメリカの経済の動きがわかるようになりました。価格形成論を受講するとシカゴの穀物相場の売買が義務ずけられます。

 最後に留学した事の個人的メリットは、運転免許を取得できたこと、コンピューターをつかえるようになったこと、英語の読み書きが少しは出来るようになったことなどです。これらはいずれも帰国後の生活に大いに役立ちました。ポーターの「競争優位の戦略」などを含めて30歳代から40歳代にかけて12冊の翻訳書を世にしましたのもその一つです。

 Q:TPP交渉が大詰めになる中で、日本の農業の将来がどうなるか、その競争力をどうつけるかなどが焦点になっています。乳製品の自由化問題も含めて日本、特に東日本大震災や福島第一原発事故の後の東北の農業再生の課題など、お考えをお聞かせいただければ幸いです。

 A:(小野寺武夫氏)

極めて広範なご質問ですが私の専門分野の乳製品についてまずお答えしましょう。

 今乳製品の輸出余力のある国は世界中でニュージーランドとオーストラリアだけです。アメリカや中国は輸入大国です。ヨーロッパの国々は少量の輸出をしてますが、自国で余った分を他国に少し売っているだけで輸出国には入りません。

日本の酪農の担い手は高齢化のため廃業者が多くなり、反面若手の新規参入がそれを補っていません。従って日本の原料乳生産量は減少の一途をたどり需要に追い付いていません。日本は乳製品の輸入国なのです。つい先日もバターが店頭から消えて大騒ぎになりました。これからは中国やアメリカと競争しながらどうやって外国から必要量を確保するかが課題です。その前に輸入に頼らず国産原料乳を増産することが必要です。

 国産乳を増産するには若者たちを如何にしてこの仕事に参入させるかが第一の問題です。

交代で休みが取れるような働く仕組み作り、すなわち協業化、あるいは法人化が必要でしょう。すでにいくつかの試みがなされているようです。大型化、法人化のコストを賄うためには画期的な生産コスト削減が必要です。これもニュウジーランドなどに成功例がありますからこの方法を導入すればよいでしょう。私は乳業界の将来を悲観していません。外国製品に席巻されることは考えにくいことです。

 TPP交渉で米国が強硬な分野は牛肉と豚肉です。我が国もかなりの譲歩を迫られています。しかし米国が本当に狙っているのは中国市場ですから,対日輸出問題もなんとか妥協するでしょう。

原発被害の問題は軽々しく論議できませんが、被害のなかった地域への集団移住なども解決策のひとつではないでしょうか。集団移住は明治以来、日本人はなんども経験しています。

 

Q:最初の問いにも含まれていますが、改めて、水沢高校在学当時、小野寺さんに影響を与えた先生はどんな人たちですか?思い出に残る先生がいらっしゃいますか?またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?

 A:( 小野寺武夫氏)

冒頭に申し上げましたが、後藤先生と岩淵先生が真っ先にあげられます。私の一生を決定した方々です。それから担任の佐々木菊郎先生もよく思い出されます。私が病気で学校を休んで居るときに家までお見舞いに来てくださいました。生物の先生でしたが生きた鶏の捌きかたを教えて下さったことがあり後々大変役立ちました。家で鶏を飼っていましたから鶏の始末はそれ以後私の担当になりました。

 水高の前身は県立水沢中学校です。終戦の翌年に創立され我々は第一回の入学生でした。翌年に学制改革があり義務教育制の新制中学が各市町村にできたため県立中学には第二期入学生がありませんでした。我々に下級生ができたのは高校2年になってからでした。下級生を持つことがちょっぴり嬉しく感じたものです。水中は生徒の自主性を尊重していて学期末試験は全て無監督でした。高校になってからも生徒の自主性が尊重され自由な雰囲気でした。

 Q:最後に、郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか?また水高の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?

 

A(小野寺武夫氏):

「ふるさとは遠くにありて思うもの」とうたった歌人が居ましたが、私にとっては故郷と近くで接するのが好きです。植物採集をしながら駆け巡った山野は楽しい思い出です。どんな苦しい時でも故郷に帰ると癒される思いです。

  高校生諸君に伝えたい事は「あきらめるな」ということです。高校生の頃はお金がなくて北海道の修学旅行にも参加出来なかった私が、あきらめず頑張ったお蔭で東大に進学でき、修学旅行に行けなかった北海道の会社に入って思い切り北海道を満喫しました。またアメリカの大学院に留学して最高の教育をうけることも出来ましたし、仕事の関係で欧米・アジア諸国20ヶ国に40回以上も出張し広く海外事情を知ることが出来ました。東大進学が私の人生を大きく変えたのです。あの時「あきらめないで2年間頑張ってよかったなあ」とつくづく感じます。

(了)

 


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