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輝く同窓生たち 第4回ゲスト 建築家 只野康夫氏

     2015/04/13  Yamaguchi   

 第4回ゲスト 建築家 只野康夫氏


 

 水沢高校から東京工業大学に学び、建築学科を卒業して日建設計に入る。

1970年大阪万博の日本館設計に参画したのがきっかけで沖縄海洋博、つくば科学万博で日本政府出展館を設計。他にパシフィコ横浜や、博多リバレイン、法政大学多摩キャンパスなど多くを設計するとともに、代表取締役専務等を歴任して2007年同社を退任。水高関東地区同窓会では発足間もないころから役員、2009~2013に会長を務めた。

  只野会長総会写真

水沢高校関東地区同窓会 2013年総会で

水高百周年祝賀会(2010年10月)

水高創立百周年記念祝賀会で。同期の伊藤康道君(右)と

伊藤康道書法芸術展で大賞

2015国際書法芸術展(東京都美術館)で「芸術大賞」を受賞した伊藤康道氏(左)と

 


 <略 歴>

  • 1939年 神奈川県藤沢市辻堂に生まれる
  • 1945年 終戦を機に江刺郡玉里村に移る
  • 1955年 玉里中学校卒業、水沢高等学校入学
  • 1958年 同高等学校卒業(2浪)
  • 1960年 東京工業大学入学
  • 1964年 同大学理工学部建築学科卒業
  • 同年 (株)日建設計工務(現(株)日建設計)入社
  • 1970年 (株)日建ハウジングシステム出向(1972年 復帰)
  • 1987年 設計部長。その後、大阪第二事務所長、取締役東京本社副代表、代表取締役専務執行役員(経営管理担当)、北海道日建設計会長などを歴任して2007年3月退任
  • 同年 <スタジオmanu>を主宰し現在に至る

 

 <公的役職>

  • 1993-1994年 大阪府堺市都市景観アドバイザー
  • 1995-1997年 東京工業大学非常勤講師(建築設計製図)
  • 日本建築家協会、日本建築士連合会、日本建築学会等の諸会委員

 <主な作品>

  • 1965~66年 大妻女子大学増築工事(処女作)。その後、同大学狭山台校舎同大学図書館、大妻記念館などを担当
  • 1967年 1970/大阪万博準備室に参画後、日本館設計チームに入る。その後、1975沖縄海洋博・海洋文化館、1985つくば科学万博・テーマ館を担当
  • 埼玉厚生年金休暇センター、出光興産中央研究所、積水化学工業筑波研究所、京浜急行第1ビル、IHI豊洲センタービル、博多リバレイン(下川端地区第一種市街地再開発事業)、MM21パシフィコ横浜などを担当
  • 工業化工法による高層住宅の開発(SAP)、住友金属十余二住宅(SAP試行建設)などを担当
  •  銀座並木通りリニューアル計画プロデュース

パシフィコ(海側)

パシフィコ横浜全景(国際会議場未着工)

博多(アトリゥム)

博多リバレイン、アトリウムガーデン(5階)の眺め

博多(全景)

博多リバレイン(下川端地区再開発事業)全景

博多(博多川)

博多リバレイン、博多川からの景色


 <著書(共著)>

  • 「日本経済の難問を解く」、「建設人ハンドブック」、「北海道の建築」

 

 <只野康夫氏インタビュー>

 Q(山口光関東地区同窓会会長):

 はじめに、水沢高校から東京工業大学に進まれ、建築を目指した動機とはどのようなものだったのでしょうか? 「輝く同窓生たち」の第2回・第3回ゲストになっていただいた、工藤国雄氏・小野寺武夫氏の思い出話の中に、只野さんのこともでてきますが、当時の水沢高校で出会い、影響を受けた先輩や先生たちのことも含めて教えてください。

 A(只野康夫氏):

 お二人とも私にとってかけ替えのない方々です。私は、生まれは藤沢市辻堂で、先の戦争末期に母の実家・新潟県村上市に一次避難して、ここで玉音放送を聞きました。従兄の家の庭に十数人の大人たちが頭を垂れて並び、縁側に置かれたラジオの雑音混じりの声に聞き入っていたのを覚えています。その後すぐに、父の繋がりがある江刺郡玉里村に移り住んだのですが、家も田畑もないので父母は大変だったようです。周りの方々の配慮だったのでしょう、しばらくして父が中学校の用務員(小使い)の職につくことができて、何とか妹を含む4人家族がやっていけるようになり、終戦翌年の春に私は村立玉里小学校に入学しました。私達の学年は2クラス88名で、皆みすぼらしかったけれど自然に抱かれノホホンと中学へと進みました。

 中学3年になった1952年春に、年上のお兄さんみたいな小野寺先生(第3回ゲストの小野寺武夫氏)が現れたのです。聞けば、東大入試に向けて勉強しながら代用教員として私達に英語と数学を教えて下さるという。目元がやさしく、諭すように教えて下さる先生だったので皆の人気でしたが、授業は厳しくて、例えば英語は2年の教科に戻って基礎からやり直したため3年の教科書は一部未了に終わったほどです。お陰で勉強の基本をたたき込まれる一方で、寸暇を惜しんで勉学に没頭される姿を見て、世の中にはこれほどまでして行こうとする大学があるのか、それには先ず水沢高校に行くのがいいらしいといったことを知りました。それが私の人生の大きな曲がり角でしたが、その方向を示して下さったのが小野寺先生なのです。

 水高時代(w/藤雄くん)

 水高3年生のころ。同期の高橋藤雄君(左)と

  今ではどこの高校でも生徒会長が2年生から選ばれるのは普通のようですが、当時はまだ3年生から選ばれるのが一般的でした。ところが、私が水高に入った1955年は3年生から生徒会長に立つ人がいなくて、急遽2年の工藤くん(第2回ゲストの工藤国雄氏)が立候補してなったのです。しかも、翌年私がそのバトンを受け継ぐことになったこともあって、彼との繋がりができました。(余談ですが、水高の「2年生生徒会長」の慣例はこれがキッカケではないかと思います)

 私が3年の時、工藤くんは入試に失敗して独学していたので相互に問題を出し合ったことがあります。夜中11時ごろに私の下宿先の軒下で前回の採点と次回の問題を交換するのですが、これが二人を緊密にしました。私は「これからの日本は工業が柱になる」と信じ込んでいたので、大学では機械工学を専攻しようと思い、東大理科1類を志望したけれど2度失敗。3度目は許されないと予備校に通って準備していたのですが、最終的には工藤くんの誘いもあって東京工業大学を受けて入学できました。

 東工大では、1年目は教養課程で2学年になる時に専門科目を選ぶことになっていたのですが、その際に機械工学ではなく建築学に変えました。入学して専門分野に「建築学」という存在があることを知ったことと、各学科の様子が実際に見えたことから、自分なりに考え直したのが第一要因ですが、一足先に建築学科に進んでいた工藤くんから得た影響は大きかったと思います。彼は、私にとってそのような存在であり、親友です。

 Q:  東工大時代の学生生活の思い出はどんなものがありますか? 60年安保闘争もあり、激動の日本の1960年代前半。1964年の卒業のころに、ちょうど東京オリンピックがありましたが。

 A(只野康夫氏):

 当時、東工大には学生寮制度があって、私は入学から卒業まで寮に入ることができました。粗末な建物と食事(2食)でしたが、少ない費用で安心して住み食べられたのは幸せでした。日本育英会と水高育英会の奨学金が貰えた上に、父が1年ほど前に病死して寡婦家族だったこともあって1学年後期からの授業料が免除されたので、家庭教師などのアルバイトをすれば仕送り無しでやれました。

 1年目の寮には学生運動に熱心な先輩がいたので、安保反対運動に感化されて何度もデモに行ったものです。樺美智子さんが亡くなった時も国会議事堂の周辺にいましたが、その事実を知ったのは翌日の新聞でした。当時の首相は岸信介ですが、その孫が現首相なのに因縁みたいなものを感じます。

 私が建築学科に入る頃から、日本の経済成長が具体的な形になってきました。1958年の東京タワー完成、1964年の東海道新幹線開通そして東京オリンピック等がそれですが、それはその後に続く「右肩上がり」の始まりでした。

 Q: 卒業後、日建設計に入社され、建築設計の道をずっと歩まれましたが、建築の設計の仕事にはさまざまご苦労も伴ったと思います。沖縄海洋博覧会の海洋文化館の設計などの思い出もお話いただければ幸いです。

 A(只野康夫氏):

 日建設計といっても一般にはあまり知られていないと思いますが、建築設計・都市計画など社会環境全般に関わる企画・設計・コンサルティングを専門とする総合的専門家組織です。前項にあげた東京タワーもそうですが、2012年完成のスカイツリー、水沢高校の西南にある県立胆沢病院もここの設計です。現在の社員数は1,700人余りですが、私が入った当時は大阪・東京・名古屋全体で300人程度だったと思います。

 東京オリンピックの余韻が残る1970年に大阪万博が開催されるのですが、その2年ほど前から日本政府出展日本館の企画・設計チームが発足し、入社4年目の私もメンバーに加わりました。このプロジェクトは、組織や建築の枠から飛び出た発想や人材に接するうえで、また世界に目を向ける意味でとてもいい機会だったと思います。そのときの政府側として検討をリードする通産省職員がいたのですが、「大阪万博」は同氏の東大卒業論文「日本経済の楕円構造(只野コメント:東京・大阪の2つを日本経済の核にする)」から発想されたと聞いて驚きました。それが、後に退官して作家等さまざまな分野で活躍されている堺屋太一さんです。

 1972年の沖縄本土復帰を記念して、3年後に沖縄海洋博が開かれることになり、私は大阪万博の実績から、政府出展海洋文化館の設計を担当することになりました。地元沖縄の建築家との協働で、アメリカ色が色濃く残る社会を体験しながら、はまばゆい陽光のもと、地元の人たちが時に見せる深い陰を感じながらのプロジェクトでした。当時一緒にやった沖縄の建築家は、いまでも親しい友人です。

 Q: MM21パシフィコ横浜の国際会議場や展示場、コンベンションセンターなどの設計は新しい発想で取り組まれたのだと思います。私も、2002年FIFAワールドカップを日韓共催で開催したときに、メインプレスセンターがおかれたパシフィコ横浜で、世界のメディア取材陣を相手に記者会見をした思い出がありますが、ホテルも含めて非常に使いやすい大規模な複合コンベンションセンターでした。ワールドカップはあの施設がなければ開催は難しかったと思います。思い出などを教えて下さい。

 A(只野康夫氏):

 1980年代に、人・物・情報の交流を都市経営の柱に据える気運が高まり、コンベンションセンター(国際会議場・展示場・ホテルの3機能を有する複合施設)建設が世界の主要都市で進められました。日本では「幕張メッセ」、有明の「ビッグサイト」、そしてこの「パシフィコ横浜」が代表的ですが、3機能すべてを備えているのはここだけです。横浜市が、この地に国立の国際会議場誘致の活動を始める段階(1985年)から関与して、完成の1994年まで10年を要しました。途中からバブルが発生して工事費が暴騰する、我が国初の日米建設合意による設計共同となり多くの海外建築家、デザイナーとの協働となる、国・市・第三セクターの複合事業で総工事費が1,000億に近いなど、さまざまな要素・課題が錯綜するプロジェクトでした。

 パシフィコ(海側)

パシフィコ横浜全景(国際会議場未着工)

パシフィコ(断面図)

パシフィコ横浜、ホテル断面図

 パシフィコ(陸側)

パシフィコ横浜、陸側からの景色(国際会議場未着工)

 Q: 東日本大震災と津波、福島第一原発事故などの3・11を経験した日本で、あるべき建築のあり方とは? 20世紀型の、箱物志向ではなく21世紀の日本では地域共同体、共生のための人々の暮らしに意味をもつような建築が求められていると思いますが、2020年の東京オリンピックに向けてどのような建築があるべきなのでしょうか?国立競技場の建て替え問題なども含め、ご意見をお聞かせください。

 A(只野康夫氏):

  自然災害は日本の宿命です。これに対しては、人間の智慧や工夫である程度は対策できるので、その努力は必須です。しかし、工学や技術は基本的に経験に基づくもので、将来に渡って絶対安全はあり得ないから、それに対する配慮を忘れてはいけないと思います。一方、原発は人災です。人間が作るものに完全はあり得ないので、万一の時に間違いなく対応できる範囲で利用する謙虚さが必要だと思います。原発はその意味で作ってはならないものだと思います。

   私が玉里に居たころ、寿命100年以上の茅葺屋根の家が至るところにありました。黒光りする太い柱や梁は人間の営みを越えた命を持っていましたが、最近の木造住宅は30年もすれば評価ゼロです。私の目指す先を、「家」でいえば、前者を基本に省エネと更新システムを加えた、持続可能で長寿命な家です。

 2020年オリンピックは、東京と競ったイスタンブールになればいいと思っていました。安心できる祭典にするため、つまり係争・戦争を止めようと、世界中の熱意と努力が注がれると思ったからです。一方、東京ではかつてのように経済優先になるだけではないかと思いました。ザハの新国立競技場案にはそんな雰囲気を感じます。

 Q: 最初の問いにも含まれていますが、改めて、水沢高校在学当時、只野さんに影響を与えた先生はどんな人たちですか? 思い出に残る先生がいらっしゃいますか? またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?

 A(只野康夫氏):

  真っ先にあげたいのがタイガーさん(小野寺弘先生)です。日本史の先生ですが、生徒会はじめ私たち生徒の活動全般に目を配って、よくガミガミ怒るので付いたあだ名でしたが、こころ根はとても優しい先生でした。私が玉里中学で小野寺武夫さんの教え子だったこともあったかと思うのですが、個人的にも並々ならぬお世話になりました。

  先輩たちが尊敬して止まない英語の先生に阿部庄さん(阿部庄一郎先生)という方がおられたのですが、胸を患い長いこと入院され学校には出ておられなかったので、私達には雲の上の存在でした。3年の始まりだったと思うけれど、タイガーさんがその阿部庄さんの病室に行って個人授業を受ける手配をして下さったのです。病室のベッドに座って、仙人のような阿部庄先生の口から発する一言一句がとても新鮮で重かったことを思い出します。

 タイガーさんの飲み仲間・カッパ(高力さんこと高橋力先生)、物理のビヤダル(菅原清徳先生)等々面白くて個性のある先生が多くおられて、しかもこうしたあだ名が大っぴらに通る清々しい学校でした。

 そうそう第2回ゲスト・工藤くんの回想に牟岐さん(牟岐喆雄校長)のことがあったので、私の記憶もお話ししましょう。牟岐さんが校長として来られたのは、私が2年、工藤くんが3年になった1956年4月。「大物」との前評判だったけれど、どちらかといえば地味な雰囲気の先生だったので何となく拍子抜けしていたところ、しばらくして音楽室で事件が起きた。音楽好きの男子生徒が昼休みに無断でピアノを弾いていたところ音楽の先生に捕まって、教員室に連れて行こうとする先生とそれを避けたい生徒でいざこざになったのです。

 当時、小・中学校にオルガンはあってもピアノまであるところはほとんどない時代。水高でもピアノはこれ1台しかなかったと思うので、大事にしている音楽教師の気持ちは分かる。一方、ピアノを弾いてみたいという生徒の熱い思いもまた分からない訳ではない。その場にいた生徒が、4月に生徒会長になったばかりの私を呼びに来たので駆けつけたものの見守るしかない。そこに牟岐さんが来た。音楽の先生は「大事なピアノを無断で使うなんて許せない。壊れたら大変です!」と強く訴える。それを聞いた牟岐さんは静かに言ったのです。「壊れたら直せばいい。それほど使ってもらったらピアノも本望でしょう」と。・・・私はこの言葉で牟岐さんの大きさを知りました。皆も同じだったでしょう。またたく間に牟岐さんは全校の尊敬の的になりました。ところが、それから間もなくその牟岐さんが急に県の「教育長」に抜擢されて盛岡に行くことになってしまった。私達生徒は大ショックで、急遽、前・現生徒会長の工藤くんと私が生徒代表として県庁に「取り消し要請」に行ったけれど、ダメでした。

 Q: 水高関東地区同窓会会長を経験され、首都圏での同窓会の活動と運営にご尽力されてこられましたが、関東地区同窓会の活動開始の経緯や当時の思い出話、御苦労などについてもお聞きしたいと思います。

 A(只野康夫氏):

 大学を出てしばらくして小野寺先生(小野寺武夫氏)から、関東地区にいる水高卒業生の集まりを開くので手伝えとの連絡がありました。社会人になって前のめりの時期だったので、正直言って気が重かったけれど、敬愛する方の言葉なので渋々参加したのがきっかけです。「これも世話になった水高への恩返しだよ。」・・・それとなくぽつりと漏らされた一言が、私の根底を見透かすように胸に刺さりました。

 1976年設立初期は初代会長の及川孝夫さん(1951年卒)がリードしていましたが、1983年第4回総会のころからは小野スミ子会長(1950年卒)と運営委員長の2頭立てになって、この役を長いこと八幡和三郎さん(1953年卒)がなさいました。この世代に今の関東地区同窓会の骨格が築かれ、同窓会本部との連携も確立しました。

 私が、八幡さんからそのバトンを受けたのは2006年からで、また会長を仰せつかったのが2009年ですが、ここで意識したのは、同窓会運営を組織的に進める、ホームページをつくるなどして会員により開いた会にする、同窓会本部との連携をもっと強くする等でした。まだ不十分だったり、残された課題もありそうですが、これは現会長である山口さん方若い世代にお任せして2013年度総会をもって会長を退きました。

 ついでですが、第3回~第14回総会までは経団連会館で開催されました。これは佐々木美智男さん(1953年卒)が経団連に勤めておられたからでしたが、実はこの建物は日建設計の設計・監理で、その設計に新入社員の私も加わっていたのです。ある総会後の懇親会で、美智男さんがそのことを皆さんに紹介して下さって、嬉し恥ずかしい思いをしたことがあります。(なお、当時の建物はもう解体され、新経団連会館は別のところに建っています。)

 Q: 最後に、郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか? また水高の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?

 A(只野康夫氏):

 玉里で育ったことを、この上ない幸せだと思っています。四周を山で囲まれ、真ん中を人首川(ひとかべがわ)が流れる小さな山村ですが、自然いっぱいで、これに日常の生活が溶け込んでいました。日々の生活と歴史がつながっていました。親戚はじめとする村人の皆さんはとても優しく親切だった。ひたすら感謝あるのみです。

 ただ、最近たまに行って驚くことがあります。子どもの姿が少ないのです。はじめにも言ったように、私が小学校のときは同級生は88人もいましたが、今は玉里地区で10人に満たないようで、正に過疎化の波が押し寄せているのです。

 水高については既にお話したので、たまたま「創立100周年記念誌/飛龍二世紀」を見て気づいたことを話しましょう。同誌108・109頁に「みずこう五号巻頭言(1954年3月)」と「生徒会臨時総会 決議文(1953年12月)」が紹介されています。ともに当時生徒会長だった私が書いたもので、前半は「学園には緑の空気がみなぎっている」、「自由に自主的に積極的に思案し、活動するということは、私達の学校の善き校風であり、伝統であり」と、水高の誇らしい点をあげていますが、後半で「如何に追求すべきかを誤ってはならない」とか、「いささかの非難をも受けることのないよう」と自制を求めています。これは、当時2年と3年の血気果敢なグループ間で反目があって一触即発の状態だったので、それを必死に止めようという側面があったのです。結果的に何事もなく済みましたが、何年もして社会人になって集まった同期会で、当時のリーダーが「やると君が困るだろうと思ってさ」と話してくれました。私はこれを聞いて、母校水沢高校に自治の精神が生きていたことを実感し、そこで育ったことを誇りにおもいました。

 水高に学ぶ皆さんがこのような素晴らしいインキュベーター(保育器・孵卵器)で育ちつつあることは幸せだと思います。ここから、私の場合は日本でしたが、皆さんはグローバル世界に思いきり飛び出してほしいと思います。

 了

 


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