同窓会について
同窓会からのお知らせ

逍遙歌の謎解き

     2016/01/18  kudou  

昨年11月24日、仙台支部 佐々木 伸 氏が「みんなの広場」に投稿された記事を、同窓生共有の情報として「水高アラムナイ」に転載します。


逍遥歌の謎解き

水沢高校同窓会仙台支部

佐々木 伸 (高校25回・昭和48年卒)

今年の水高同窓会仙台支部の会合で話題になった逍遥歌。作詞家はどんな人なのか、歌の誕生の背景はどうだったのか。昭和20年代と私の時代(40年代)との感じ方の違いがあることなど、謎が多い歌でした。11月1日の交流会での関係者からの証言は、逍遥歌の歴史を掘り起こすきっかけになりました。まずは、逍遥歌の詩から紹介いたします。

 

逍遥歌(逝く春)   作詩 阿部庄一郎

一 胸に描きし甘き夢  日々に破れて傷つける

  重たき心抱きつつ  暮れ行く空に駒ケ峰を

  仰ぎて独りそぞろげば あわれ悲し逝く春の

  ひとひら散らし梨の花

 

二 胸に描きし清き夢  日々に破れて濁りたる

  つめたき心抱きつつ  暮れ行く空に北上を

  望みて独りさすらえば あわれ悲し逝く春の

  ほのかに浮かぶ三日の月

三 胸に描きし高き夢  日々に破れてむしばめる

  むなしき心抱きつつ  夕べを騒ぐげんげ田を

  さまよいおればほのぼのと 

          またさしそめし希望かな

  ああ若き日の希望かな

 

逍遥歌の作詩者である阿部庄一郎氏のご子息の阿部琢也さんは、「父は、旧制一高に学び、戦後で何もなくなった状態で英語教師として来ました」と水沢との接点と次の様な新制水高の黎明期を語ってくれました。

—(阿部琢也さんの話)———————————————————————————————

旧制一高は、夏目漱石などの小説に出てきます。つっぱっている、バンカラ風などといわれていましたが、その対極にあるのが遠い存在である女性への憧れ、郷土の自然、風土への思いがあったと思います。 

「新制の水沢高校がスタートしたときに、新たな気風をつくりたい」。それが旧制高校を体験からの気持ちだったのではないか。

父がどういう経過で作詩した経過を聞かないままに亡くなってしまいました。埼玉にいる姉(昭和26年卒)に聞いても経緯はわからない。推測でしかお話しできませんが、今日は資料を差し上げました。これは、今から33年前に東北新幹線が上野、仙台間で開通した時に、週刊朝日が特集増刊号で、私の同級生の佐藤通雅君が編集部からの依頼で寄稿した4ページの記事です。彼は河北新報の河北歌壇の選者であり、仙台で活躍している文学者です。彼が逍遥歌に対する思いというものを書いてくれていますが、内容は私の推測に近いと思っています。

—————————————————————————————————————————

 

佐藤通雅さんのその記事は、昭和57年(1982)7月の週刊朝日です。「東北・風土と文学」と題して、「北上川流域の風土がひとを作る。風土が文学を生む」の始まりから、故郷への思い、逍遥歌の思い出を寄せている。「匂いやさしい白百合の・・と始まる北上夜曲が全国に広がったが、自分たちの心に秘密をあばかれるような気分だった」という前置きしたうえで、こんな内容で述べています。

—( 佐藤通雅さんの記事)—————————————————————————————-

同級生はむしろ「逍遥歌」という歌を愛唱した。試合に負けたときに、うたう歌があった。一同直立不動のまま、かなしく美しいメロディを口にし、応援団以下全員くやし涙にくれるという歌である。それを逍遥歌といった。

作詩者は同じ学校で英語を担当していた阿部庄一郎先生だった。彼はみごと一高に合格したが事情あって中退、その後北国の高校にやってきて教鞭をとっていた。古今東西にわたる深く広い教養はいつでも畏敬の的だった。結核をわずらい、長い闘病生活の末、退職を待たずに亡くなった。

きびしい自然風土に体を痛めつけられながらも、一方では山や川に慰撫されてきたのだろう。そういう孤高の想いと純潔な抒情がとけあって、一遍の詩となった。

(さらに佐藤さんは、逍遥歌の一番の歌詞を紹介し、また阿部庄一郎先生の人柄を偲びながら、このように結んでいます)

逍遥歌を歌うたびに、よるべない想いをいだいてさまよい歩いた北上川の岸辺がうかぶ。青春の日のかなしみや痛みもよみよみがえる。 自然風土が、まだ人の心とともに生きえた時代だったと今にして思う。

—————————————————————————————————————————

 

この記事は、「啄木・賢治・光太郎・・・かけがいのない開放と飛翔の場」、「土足で汚されたくない北上川流域」と二つの見出しがつけられています。阿部庄一郎先生とともに、東北にゆかりが深い石川啄木、宮澤賢治、高村光太郎に触れながら、「北上川は次の時代に、どのようなひとと文学を生むのか」と東北新幹線開通への思いを込めています。

逍遥歌には原曲があります。水高ホームページでも紹介されていますが、旧制松本高校の思誠寮寮歌「春寂寥(はるせきりょう)」です。詩は少々違っていて、水高の詩は東北がテーマになっています。メロディは同じです。阿部琢也さんは、「父は音楽の方はまったくわからない訳で、このメロディになった経過はわかりません。謎です」といいます。

信州大学の入学式で、オーケストラの演奏と合唱団が歌っています。ユーチューブで聞く事ができます。調べてみると、信州大学でもこの歌を演奏するのは最近のことのようです。

信州大学の山沢清人学長が入学式で、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性を育てるという趣旨から「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と式辞を述べていますが、その次に思誠寮寮歌と外国語授業について触れています。

—(信州大学 山沢清人学長の式辞)—————————————————————————-

本日の入学式では二つの歌を皆様と一緒に歌うことになっています。一つは信州大学の前身の一つである旧制松本高等学校の思誠寮寮歌「春寂寥」です。大正九年に吉田実さん(作詞)と濱徳太郎さん(作曲)の二人の学生によって作られました。

旧制松本高等学校は、大正8年(1919年)に開校され、その後信州大学の発足にあたりその母体の一つとなり、文理学部に改組されて昭和25年(1950年)には閉校となりました。

文科と理科の専攻に分かれての勉強ですが、授業時間の4割が外国語、文科でも数学と自然科学が週5時間ほど課せられ、また理科でも国語及び漢文が週4時間ほど課せられる、文理の差が非常に少ないカリキュラムでありました。

ほとんどの生徒は思誠寮での寄宿生活であり、寮生活を通して、切磋琢磨により、自らの生き方を見出すという恵まれた時間をつくることができたと言われています。まさに独創性が育まれたということです。

—————————————————————————————————————————

 

阿部琢也さんは、「いまでも同窓会によって逍遥歌が歌い継がれ、信州でそのメロディが流れている。本当に嬉しいことです」と遺族を代表して感謝の気持ちを込めてくれました。「逍遥歌の謎」が少し解けてきましたが、阿部さんの話を聞き、立ちあがった同窓生がいました。

遠い松本のメロディがなぜ水高に伝わったのか。阿部庄一郎先生の教え子だったという久松豊さん(昭和26年卒)が鮮明に記憶していました。

—(久松 豊さんの話)———————————————————————————————-

阿部さんが長野とどんな縁があったのか疑問を持っておられましたが、じつは縁はあるのです。水沢高校の前身は旧制水沢中学校です。昭和21年に新設されましたが、その時に来た校長先生が河野光男という、黒北から来た先生だった思いますが、英語の先生でした。

彼は水高になってから長野に移って行きました。今の信州大学です。だから当時は河野先生とのご縁はあったと思います。

私の同級生には多種多彩、いろんなことをやる連中がいて、旧制松本高校のメロディもみんなで話し合いながら出来上がったのではないかと思います。

当時は水沢中学校から新制水沢高校になった訳ですが、水高になっても何もありませんでした。なにせ校舎すらありませんでした。校歌もありませんでした。

そんな何もない時代でしたから、資料、情報など集めながらの授業でした。先生も生徒も一緒になって学校づくりをしていました。

そんな何もない時代に阿部庄一郎先生がいました。先生とじかに接触があったのは我々の年代でした。私は英語でしこたま鍛えられました。今思えば、大変なことをやっていたんです。高校2年、3年のころ、阿部庄先生から「お前ら集まれ!」と、公民館のような所で英語の原書、抜粋ですが、講読をやらされました。世界一の文法学者の原本の抜粋を阿部庄先生は資料にして我々に教えてくれました。私はそれまで知りませんでしたが、辞書もオックスフォード大辞典、COD(Concise Oxford Dictionary)を使っていました。阿部庄先生はいつもこの辞書を引き下調べをして、ガリ版で刷って、私たちに渡してくれました。

何にもない時代ではありましたが、教師と生徒が一丸となって新しい試みをした時代であったことは確かです。

私は、阿部庄(あべしょう)の影響で、高校、大学の英語教師になりました。あとで後悔したことがありますが・・・(笑)。

—————————————————————————————————————————

 

 河野光男校長とはどんな人物だったのだろうか?謎が深まりました。仕事を先送りにしてパソコン検索が始まりました「河野光男 水沢高校」で1件ヒットしました。それは信州大学教育学部同窓会の会報、平成8年6月15日第10号でした。それは平成7年2月26日に逝去されたという悲しい記事でしたが、水沢との接点が明らかになりました。次の内容でした。

明治38年2月1日生まれ。広島県出身。昭和6年東京大学卒。昭和22年水沢中学校校長から長師(長野師範学校)教授として着任。昭和26年信州大学教授。昭和45年3月定年退職。英語,英文学担当。専門はシェークスピアなど。名誉教授

河野光男校長は、シェークスピア専門の英文学者でした。英語の阿部庄一郎先生と同じ時代を水沢で過ごし、英語教育や英文学を語り合ったのだろうか。信州大学の特徴の外国語教育について山沢総長が語っていますが、河野校長は信州へスカウトされたのではないか。信州に赴任した河野校長が阿部庄一郎先生に春寂寥という曲を紹介し、そのメロディと詩を生徒たちが受け入れ、水沢バーションの逍遥歌が出来上がったのか。信州と奥州の繋がりは今以上に深かったのではないか。そんなことを想像しています。同窓生の記憶や多方面からの情報をもう少し集めながら、謎解きを進めていきたいと思います。

そんな記憶のひとつが水高同窓会のホームページの「輝く同窓生たち」にありました。ニューヨークのコロンビア大学建築学部で教鞭をとっている工藤国雄さんは、「受験の神様といわれた伝説教官の阿部庄先生に巡り合ったことがアメリカ留学に繋がった」と語っています。また、「当時、ニューヨークタイムズを取り寄せて読んでいた。その切り抜きを『読みなさい』と言ったきり1時間でも、2時間でも黙っていた。最後に『何か分かったかね』でした」と入院中にもかかわらず個人教授してくれたエピソードも紹介しています。一方、「まだ男子女子の教室が分かれていたころで、男子学生は高歯の下駄をはいて腰に手ぬぐいを下げ、高らかに「胸に描きし甘き夢、日々に破れて傷つける〜」と水高逍遥歌を唄って歩いたのです」と述懐しています。

 

 水高第一応援歌、水高賛歌も作詩された阿部庄先生と河野校長の繋がり、さらには逍遥歌が当時の高校生の心のなかに深く残っていること、そんなことを確認できた同窓会でした。阿部琢也さんから最近こんなメールをいきだきました。

—(阿部琢也さんからのメール)——————————————————————————–

お陰様で私自身も何かしら満足感をもって会場を後にすることが出来ました。

逍遙歌について久松さんがコメントして下さった「河野先生」のお名前が気になって、私も同窓会名簿から水沢中学校校長をされたことまでは辿り着けましたが、更に詳細な事実を探られたことに敬服いたしました。

逍遙歌と旧制松本高校の繋がりの一つの糸口になりそうな気がいたします。

信州大学山沢学長の入学式あいさつ全文は、まことに含蓄のある式辞で、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」は、確かマスコミでも話題になった記憶があります。思誠寮寮歌についての言及があることを見出されたことにも感謝の念でいっぱいです。

 「輝く同窓生たち」の工藤国雄さんの文章も、たいへんな感激をもって読ませていただきました。実は、工藤さんのお名前は私が小学生の頃に父や母の口からよく聞いており、東京工業大学という難しい大学に合格されたという話が私の記憶に残っています。工藤さんの文中にも、逍遙歌について語られていることをうれしく思いました。

私たち身内の者でさえも「もう過去の遺産」のように思っていた逍遙歌に光を当てて下さったことに心より感謝しております。

—————————————————————————————————————————

 

 私の逍遥歌の記憶は,昭和20年代に青春を送った先輩とは少々異なります。昭和40年代半ば,胸が躍り,上級生への怖れを抱きながら水高に入学、朝の応援歌練習に臨みました。そこにはバンカラというか,ボロをまとった応援団が仁王立ちしていました。校歌も応援歌も「音楽」というよりは,大声を出し,歌詞を暗記する手段だったように思えます。

逍遥歌の歌詞はおぼろげながら記憶しているのですが,メロディはどんなだったか。なにせ,応援団の指導でしたから,音楽指導には程遠かったと思います。私は剣道部。試合があっても,応援の生徒はいません。当然,応援歌,祝勝歌,逍遥歌に臨場感がありません。なぜか野球部だけが大勢の応援があり,時には全校応援もありました。ひがみではなく,世の中の関心というものでしょうか。そんな私でしたから,逍遥歌を歌ってもらったという実体験はなく,よって記憶が薄れたのだろうと思います。

では先輩たちはなぜ逍遥歌を愛し,歌っていたのでしょうか。おおいなる謎でした。久松豊さんが「当時は何もなかった。教師と生徒が一緒になって学校づくりをした」とも語っています。校舎移転や授業、学校運営,校風づくりも取り組む必要もあったでしょう。そう考えると,水高をどんな気風に作り上げるかというのも一大事と思われます。学校側がメロディや詩を一方的に作り,生徒に示したところで,それは定着しにくい。逍遥歌の作詞や作曲も教師と生徒の話し合いがあったに違いありません。生徒が参加して作り上げたプロセスがあったからこそ認知され,共感され,実際に歌われたのではないかと推測しています。そう考えると,逍遥歌は阿部昭一郎先生と生徒たちとの合作で、作詩の代表者が阿部先生ともいえるのではないか。そんな気がします。

同窓会仙台支部の報告を同窓会ホームページに掲載したところ,同窓会事務局をされている谷木悌典先生からEメールがありました。なんと,関東支部では逍遥歌を歌っているというのです。「逍遙歌は同窓生の心の中に深く刻まれた歌のようで、86名の参加者全員で歌ってきました」ということでした。

何もない時代に先生方,先輩方が友愛、清新、気魄の精神による校風を作り上げ,今でも脈々と繋げています。伝統のよりどころの一つが逍遥歌だったのではないか。この歌の謎解きは,水高に関わるひとり一人が時代を超えた水脈があることを確認するものだったかも知れません。

逍遥歌に関するご記憶、エピソードなどお知らせください。

 jet.shin-mds@jcom.home.ne.jp


  • 総合出版 WEBサイトへ