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水沢の風景

一年ぶりの水沢でしたが、町なかの写真をご紹介します。
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水沢江刺駅の西側です。

次は、世代によっては何処なのか分からないはず。
日高小路から大畑小路を見る。欄干などが整備されている。

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岩手でも、ここに限らず、車で山奥まで入っても道路が舗装されている。先には人家が見当たらない。
日本が先進国の仲間入りしている分かり易いヘンな一例かも知れません。

しばらくシャッターが下ろされたままの町なかの商店街が少し変わり始め、大町や横町の商店跡に介護施設や養護施設ができている。
どんな人々が郊外に移り住み、旧市街に残った人々のことを考えると、時の流れは、必然と、なりそうな方向に進む。

次。道路の向こう先が水沢駅。こちらに来る突き当たりのタカトヨは郊外に移って、今は道路が真っすぐ西に突き抜けている。Mapleの道向かいに並ぶのはホテル ルートイン。
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市役所前の広い道。どのへんか道路標識で分かります。バスが見える道は、かつては水沢小学校前の通りが拡幅されたもの。
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この屋敷側に広い道が通っている。目の前の横に走る道が駅から延びて一部が広くなった新小路だろ。
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このような季節です。今年は桜が終わっていた。
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水沢高校 春の風景

同窓会より水高に製氷機を寄贈

水高で部活動用として設置されていた製氷機が老朽化のため更新が必要となっていました。そのため、同窓会より新しい製氷機を寄贈いたしました。3月24日に製氷機の設置及び流し台等の工事が行われ既に各運動部によって活用されています。

なお、当該費用は、本年度の同窓会特別会計として予算化されている事業費(施設設備費)より支出しました。

以上ご報告致します。

同窓会事務局

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同窓会報 第44号

水沢高校 冬の風景

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同窓会より水高に加湿器(各教室に設置)を寄贈

水高では、受験シーズンを迎える冬期間、風邪やインフルエンザの感染予防のため、各クラスに加湿空気清浄器が設置されていました。これは、平成18年度の卒業記念品として寄贈されたものでした。しかし、10年が経過し機器が老朽化していました。

同窓会では、後輩の水高生の良好な学習環境の維持と受検合格を願い、過日、新しい機器を寄贈致しました。

なお、当該費用は、本年度の同窓会特別会計として予算化されている事業費(施設設備費)より支出しました。

以上ご報告致します。

同窓会事務局

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同窓生より「源氏物語(10巻セット)」を水高に寄贈

昨年の同窓会総会の際に、長岡わか様(昭和31 高8回卒)より、水高に対し「源氏物語(10巻セット)」10セットの寄贈のお申し出がありました。

過日寄贈され、1,2年各クラスの本棚に置いて、生徒が自由に閲覧できる状態で、古典の学習の一助となっているとのことです。

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同窓会会員皆様におかれました、水高生の学習や進路選択・啓発に資する図書が有りましたら、寄贈をお願い致します。                          以上

同窓会事務局

逍遙歌の謎解き

昨年11月24日、仙台支部 佐々木 伸 氏が「みんなの広場」に投稿された記事を、同窓生共有の情報として「水高アラムナイ」に転載します。


逍遥歌の謎解き

水沢高校同窓会仙台支部

佐々木 伸 (高校25回・昭和48年卒)

今年の水高同窓会仙台支部の会合で話題になった逍遥歌。作詞家はどんな人なのか、歌の誕生の背景はどうだったのか。昭和20年代と私の時代(40年代)との感じ方の違いがあることなど、謎が多い歌でした。11月1日の交流会での関係者からの証言は、逍遥歌の歴史を掘り起こすきっかけになりました。まずは、逍遥歌の詩から紹介いたします。

 

逍遥歌(逝く春)   作詩 阿部庄一郎

一 胸に描きし甘き夢  日々に破れて傷つける

  重たき心抱きつつ  暮れ行く空に駒ケ峰を

  仰ぎて独りそぞろげば あわれ悲し逝く春の

  ひとひら散らし梨の花

 

二 胸に描きし清き夢  日々に破れて濁りたる

  つめたき心抱きつつ  暮れ行く空に北上を

  望みて独りさすらえば あわれ悲し逝く春の

  ほのかに浮かぶ三日の月

三 胸に描きし高き夢  日々に破れてむしばめる

  むなしき心抱きつつ  夕べを騒ぐげんげ田を

  さまよいおればほのぼのと 

          またさしそめし希望かな

  ああ若き日の希望かな

 

逍遥歌の作詩者である阿部庄一郎氏のご子息の阿部琢也さんは、「父は、旧制一高に学び、戦後で何もなくなった状態で英語教師として来ました」と水沢との接点と次の様な新制水高の黎明期を語ってくれました。

—(阿部琢也さんの話)———————————————————————————————

旧制一高は、夏目漱石などの小説に出てきます。つっぱっている、バンカラ風などといわれていましたが、その対極にあるのが遠い存在である女性への憧れ、郷土の自然、風土への思いがあったと思います。 

「新制の水沢高校がスタートしたときに、新たな気風をつくりたい」。それが旧制高校を体験からの気持ちだったのではないか。

父がどういう経過で作詩した経過を聞かないままに亡くなってしまいました。埼玉にいる姉(昭和26年卒)に聞いても経緯はわからない。推測でしかお話しできませんが、今日は資料を差し上げました。これは、今から33年前に東北新幹線が上野、仙台間で開通した時に、週刊朝日が特集増刊号で、私の同級生の佐藤通雅君が編集部からの依頼で寄稿した4ページの記事です。彼は河北新報の河北歌壇の選者であり、仙台で活躍している文学者です。彼が逍遥歌に対する思いというものを書いてくれていますが、内容は私の推測に近いと思っています。

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佐藤通雅さんのその記事は、昭和57年(1982)7月の週刊朝日です。「東北・風土と文学」と題して、「北上川流域の風土がひとを作る。風土が文学を生む」の始まりから、故郷への思い、逍遥歌の思い出を寄せている。「匂いやさしい白百合の・・と始まる北上夜曲が全国に広がったが、自分たちの心に秘密をあばかれるような気分だった」という前置きしたうえで、こんな内容で述べています。

—( 佐藤通雅さんの記事)—————————————————————————————-

同級生はむしろ「逍遥歌」という歌を愛唱した。試合に負けたときに、うたう歌があった。一同直立不動のまま、かなしく美しいメロディを口にし、応援団以下全員くやし涙にくれるという歌である。それを逍遥歌といった。

作詩者は同じ学校で英語を担当していた阿部庄一郎先生だった。彼はみごと一高に合格したが事情あって中退、その後北国の高校にやってきて教鞭をとっていた。古今東西にわたる深く広い教養はいつでも畏敬の的だった。結核をわずらい、長い闘病生活の末、退職を待たずに亡くなった。

きびしい自然風土に体を痛めつけられながらも、一方では山や川に慰撫されてきたのだろう。そういう孤高の想いと純潔な抒情がとけあって、一遍の詩となった。

(さらに佐藤さんは、逍遥歌の一番の歌詞を紹介し、また阿部庄一郎先生の人柄を偲びながら、このように結んでいます)

逍遥歌を歌うたびに、よるべない想いをいだいてさまよい歩いた北上川の岸辺がうかぶ。青春の日のかなしみや痛みもよみよみがえる。 自然風土が、まだ人の心とともに生きえた時代だったと今にして思う。

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この記事は、「啄木・賢治・光太郎・・・かけがいのない開放と飛翔の場」、「土足で汚されたくない北上川流域」と二つの見出しがつけられています。阿部庄一郎先生とともに、東北にゆかりが深い石川啄木、宮澤賢治、高村光太郎に触れながら、「北上川は次の時代に、どのようなひとと文学を生むのか」と東北新幹線開通への思いを込めています。

逍遥歌には原曲があります。水高ホームページでも紹介されていますが、旧制松本高校の思誠寮寮歌「春寂寥(はるせきりょう)」です。詩は少々違っていて、水高の詩は東北がテーマになっています。メロディは同じです。阿部琢也さんは、「父は音楽の方はまったくわからない訳で、このメロディになった経過はわかりません。謎です」といいます。

信州大学の入学式で、オーケストラの演奏と合唱団が歌っています。ユーチューブで聞く事ができます。調べてみると、信州大学でもこの歌を演奏するのは最近のことのようです。

信州大学の山沢清人学長が入学式で、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性を育てるという趣旨から「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と式辞を述べていますが、その次に思誠寮寮歌と外国語授業について触れています。

—(信州大学 山沢清人学長の式辞)—————————————————————————-

本日の入学式では二つの歌を皆様と一緒に歌うことになっています。一つは信州大学の前身の一つである旧制松本高等学校の思誠寮寮歌「春寂寥」です。大正九年に吉田実さん(作詞)と濱徳太郎さん(作曲)の二人の学生によって作られました。

旧制松本高等学校は、大正8年(1919年)に開校され、その後信州大学の発足にあたりその母体の一つとなり、文理学部に改組されて昭和25年(1950年)には閉校となりました。

文科と理科の専攻に分かれての勉強ですが、授業時間の4割が外国語、文科でも数学と自然科学が週5時間ほど課せられ、また理科でも国語及び漢文が週4時間ほど課せられる、文理の差が非常に少ないカリキュラムでありました。

ほとんどの生徒は思誠寮での寄宿生活であり、寮生活を通して、切磋琢磨により、自らの生き方を見出すという恵まれた時間をつくることができたと言われています。まさに独創性が育まれたということです。

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阿部琢也さんは、「いまでも同窓会によって逍遥歌が歌い継がれ、信州でそのメロディが流れている。本当に嬉しいことです」と遺族を代表して感謝の気持ちを込めてくれました。「逍遥歌の謎」が少し解けてきましたが、阿部さんの話を聞き、立ちあがった同窓生がいました。

遠い松本のメロディがなぜ水高に伝わったのか。阿部庄一郎先生の教え子だったという久松豊さん(昭和26年卒)が鮮明に記憶していました。

—(久松 豊さんの話)———————————————————————————————-

阿部さんが長野とどんな縁があったのか疑問を持っておられましたが、じつは縁はあるのです。水沢高校の前身は旧制水沢中学校です。昭和21年に新設されましたが、その時に来た校長先生が河野光男という、黒北から来た先生だった思いますが、英語の先生でした。

彼は水高になってから長野に移って行きました。今の信州大学です。だから当時は河野先生とのご縁はあったと思います。

私の同級生には多種多彩、いろんなことをやる連中がいて、旧制松本高校のメロディもみんなで話し合いながら出来上がったのではないかと思います。

当時は水沢中学校から新制水沢高校になった訳ですが、水高になっても何もありませんでした。なにせ校舎すらありませんでした。校歌もありませんでした。

そんな何もない時代でしたから、資料、情報など集めながらの授業でした。先生も生徒も一緒になって学校づくりをしていました。

そんな何もない時代に阿部庄一郎先生がいました。先生とじかに接触があったのは我々の年代でした。私は英語でしこたま鍛えられました。今思えば、大変なことをやっていたんです。高校2年、3年のころ、阿部庄先生から「お前ら集まれ!」と、公民館のような所で英語の原書、抜粋ですが、講読をやらされました。世界一の文法学者の原本の抜粋を阿部庄先生は資料にして我々に教えてくれました。私はそれまで知りませんでしたが、辞書もオックスフォード大辞典、COD(Concise Oxford Dictionary)を使っていました。阿部庄先生はいつもこの辞書を引き下調べをして、ガリ版で刷って、私たちに渡してくれました。

何にもない時代ではありましたが、教師と生徒が一丸となって新しい試みをした時代であったことは確かです。

私は、阿部庄(あべしょう)の影響で、高校、大学の英語教師になりました。あとで後悔したことがありますが・・・(笑)。

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 河野光男校長とはどんな人物だったのだろうか?謎が深まりました。仕事を先送りにしてパソコン検索が始まりました「河野光男 水沢高校」で1件ヒットしました。それは信州大学教育学部同窓会の会報、平成8年6月15日第10号でした。それは平成7年2月26日に逝去されたという悲しい記事でしたが、水沢との接点が明らかになりました。次の内容でした。

明治38年2月1日生まれ。広島県出身。昭和6年東京大学卒。昭和22年水沢中学校校長から長師(長野師範学校)教授として着任。昭和26年信州大学教授。昭和45年3月定年退職。英語,英文学担当。専門はシェークスピアなど。名誉教授

河野光男校長は、シェークスピア専門の英文学者でした。英語の阿部庄一郎先生と同じ時代を水沢で過ごし、英語教育や英文学を語り合ったのだろうか。信州大学の特徴の外国語教育について山沢総長が語っていますが、河野校長は信州へスカウトされたのではないか。信州に赴任した河野校長が阿部庄一郎先生に春寂寥という曲を紹介し、そのメロディと詩を生徒たちが受け入れ、水沢バーションの逍遥歌が出来上がったのか。信州と奥州の繋がりは今以上に深かったのではないか。そんなことを想像しています。同窓生の記憶や多方面からの情報をもう少し集めながら、謎解きを進めていきたいと思います。

そんな記憶のひとつが水高同窓会のホームページの「輝く同窓生たち」にありました。ニューヨークのコロンビア大学建築学部で教鞭をとっている工藤国雄さんは、「受験の神様といわれた伝説教官の阿部庄先生に巡り合ったことがアメリカ留学に繋がった」と語っています。また、「当時、ニューヨークタイムズを取り寄せて読んでいた。その切り抜きを『読みなさい』と言ったきり1時間でも、2時間でも黙っていた。最後に『何か分かったかね』でした」と入院中にもかかわらず個人教授してくれたエピソードも紹介しています。一方、「まだ男子女子の教室が分かれていたころで、男子学生は高歯の下駄をはいて腰に手ぬぐいを下げ、高らかに「胸に描きし甘き夢、日々に破れて傷つける〜」と水高逍遥歌を唄って歩いたのです」と述懐しています。

 

 水高第一応援歌、水高賛歌も作詩された阿部庄先生と河野校長の繋がり、さらには逍遥歌が当時の高校生の心のなかに深く残っていること、そんなことを確認できた同窓会でした。阿部琢也さんから最近こんなメールをいきだきました。

—(阿部琢也さんからのメール)——————————————————————————–

お陰様で私自身も何かしら満足感をもって会場を後にすることが出来ました。

逍遙歌について久松さんがコメントして下さった「河野先生」のお名前が気になって、私も同窓会名簿から水沢中学校校長をされたことまでは辿り着けましたが、更に詳細な事実を探られたことに敬服いたしました。

逍遙歌と旧制松本高校の繋がりの一つの糸口になりそうな気がいたします。

信州大学山沢学長の入学式あいさつ全文は、まことに含蓄のある式辞で、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」は、確かマスコミでも話題になった記憶があります。思誠寮寮歌についての言及があることを見出されたことにも感謝の念でいっぱいです。

 「輝く同窓生たち」の工藤国雄さんの文章も、たいへんな感激をもって読ませていただきました。実は、工藤さんのお名前は私が小学生の頃に父や母の口からよく聞いており、東京工業大学という難しい大学に合格されたという話が私の記憶に残っています。工藤さんの文中にも、逍遙歌について語られていることをうれしく思いました。

私たち身内の者でさえも「もう過去の遺産」のように思っていた逍遙歌に光を当てて下さったことに心より感謝しております。

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 私の逍遥歌の記憶は,昭和20年代に青春を送った先輩とは少々異なります。昭和40年代半ば,胸が躍り,上級生への怖れを抱きながら水高に入学、朝の応援歌練習に臨みました。そこにはバンカラというか,ボロをまとった応援団が仁王立ちしていました。校歌も応援歌も「音楽」というよりは,大声を出し,歌詞を暗記する手段だったように思えます。

逍遥歌の歌詞はおぼろげながら記憶しているのですが,メロディはどんなだったか。なにせ,応援団の指導でしたから,音楽指導には程遠かったと思います。私は剣道部。試合があっても,応援の生徒はいません。当然,応援歌,祝勝歌,逍遥歌に臨場感がありません。なぜか野球部だけが大勢の応援があり,時には全校応援もありました。ひがみではなく,世の中の関心というものでしょうか。そんな私でしたから,逍遥歌を歌ってもらったという実体験はなく,よって記憶が薄れたのだろうと思います。

では先輩たちはなぜ逍遥歌を愛し,歌っていたのでしょうか。おおいなる謎でした。久松豊さんが「当時は何もなかった。教師と生徒が一緒になって学校づくりをした」とも語っています。校舎移転や授業、学校運営,校風づくりも取り組む必要もあったでしょう。そう考えると,水高をどんな気風に作り上げるかというのも一大事と思われます。学校側がメロディや詩を一方的に作り,生徒に示したところで,それは定着しにくい。逍遥歌の作詞や作曲も教師と生徒の話し合いがあったに違いありません。生徒が参加して作り上げたプロセスがあったからこそ認知され,共感され,実際に歌われたのではないかと推測しています。そう考えると,逍遥歌は阿部昭一郎先生と生徒たちとの合作で、作詩の代表者が阿部先生ともいえるのではないか。そんな気がします。

同窓会仙台支部の報告を同窓会ホームページに掲載したところ,同窓会事務局をされている谷木悌典先生からEメールがありました。なんと,関東支部では逍遥歌を歌っているというのです。「逍遙歌は同窓生の心の中に深く刻まれた歌のようで、86名の参加者全員で歌ってきました」ということでした。

何もない時代に先生方,先輩方が友愛、清新、気魄の精神による校風を作り上げ,今でも脈々と繋げています。伝統のよりどころの一つが逍遥歌だったのではないか。この歌の謎解きは,水高に関わるひとり一人が時代を超えた水脈があることを確認するものだったかも知れません。

逍遥歌に関するご記憶、エピソードなどお知らせください。

 jet.shin-mds@jcom.home.ne.jp

謹賀新年(平成28年 会長年頭挨拶)

年頭挨拶               岩手県立水沢高等学校同窓会会長 長野耕定

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あけましておめでとうございます

 同窓生の皆さんには、明るい年の初めをお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年は、国内外ともに歴史の転換点を思わせる大きな出来事が次々と起こりました。
今年がどの様な年になるのか、希望と不安が入り混じった感じですが、穏やかで平和な一年であることを祈りたいと思います。

 さて、「岩手県立水沢高等学校同窓会」は昭和32年4月の発足から今年4月で満59年が経過し、その歴史は60年目に入ります。まさに「還暦」を迎えました。人生同様大きな区切りであり、次代に向けて新たなステージの始まりの年とも言えましょう。私は活動の方向として次の通り考えております。

 第一に、会員の皆さんの親睦と世代を越えた交流の場として活性化を図ります。
昨年、各支部の総会に出席し、多く同窓生の皆さんとお会いすることができました。
退職され自由に活動されている方、生涯現役を貫かれご活躍の方、現役の皆さん、大学生の皆さん、それぞれが広範な分野で活躍されていました。しかし、各人の活躍が同窓生の間でもあまり知られていないのも現実です。
明治、大正、昭和と我国の歴史に足跡を残された郷土の先輩、後藤新平伯は「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」と言われたそうです。
人としての生き方における活躍とはこの様なものなのでしょう。同窓生の皆さんのさらなる活動に資するため、同窓会を、懐かしさを共有する親睦の場だけではなく、皆さんの活躍の情報を共有し、校章「雪の徽章」のもとに、世代を越えたネットワークを構築し、あらゆる場面で助け合える場にして行きたいと考えます。広く多くの皆さんが同窓会に参加頂けるように努めます。

 第二に、母校水高へ「文武両道」の面から支援を行いたいと考えます。
まず、在校生の勉学や進路支援を行います。社会人の先輩として、進路形成に資する特別授業の講師派遣や「水高育英奨学金」の拡充を図って行きます。
また、クラブ活動の支援として、運動部の活動支援や試合の応援の強化を図りたいと考えています。さらには、文化部の活動支援を行います。必要に応じて同窓生による専門的アドバイザー派遣や発表会の聴講など、積極的に支援して行きたいと考えます。

 第三に、活動が休止している支部の再開を支援したいと考えます。
関西支部と名古屋支部の活動が中断されています。
早急には実現できないと思いますが、関西、名古屋支部 の復活を願うものです。ホームページを通して(「みんなの広場」への書き込み)、または事務局へ直接、両地区にお住まいの方やゆかりの方からのご意見などを頂ければとも思っています。それにより、再会の方策を考えたいと思っております。

 以上ですが、皆さんのお力添えを頂戴し、より有益な同窓会を目指し活動してまいります。

本年もよろしくお願いたします

水沢高校 秋の風景

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水沢高等学校から及川 修 氏(昭和44年卒)に感謝状贈呈

11月7日(土)開催の関東地区同窓会総会において、水沢高等学校志学館の空調設備を寄付された昭和44卒業の及川 修 氏に対し、母校から感謝状が贈呈されました。

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及川氏は、現在、神奈川県川崎市で「研空社」という建築設備の会社を経営されています。

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同氏は水高ではバスケットボール部に所属されていました。その縁で、バスケットボール部の先輩・後輩である同窓会本部の藤田監事(昭和43年卒)と谷木事務局長(昭和55年卒)が、志学館(80周年記念事業として同窓生の寄付で建設)の空調設備改修工事内容を確認する過程で及川氏に意見をもとめるなど相談を持ちかけました。検討を重ねる中で、及川氏から志学館全館の空調設備一式の寄付を申し出があったとのことです。

 

 

 

[報告] 水沢高等学校関東地区同窓会総会 特別講演会から(聴講記録)

 (記録者)関東地区同窓会 副会長 運営委員長 工藤康博

 

日時:平成27年11月7日(土)11:30~12:30

場所:東京グリーンパレス

演題:「明治神宮―100年の森づくりの歴史と未来―」

講師:今泉宜子(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)

 

今回の特別講演は、水高平成元年卒業の今泉宜子さんにお願いしまた。                       今泉さんは、現在、明治神宮国際神道文化研究所主任研究委員として、明治神宮の歴史を研究され、英国はじめ欧米に発信し各国研究者との交流により、明治神宮と日本文化への国際理解の広がりに努められています。

明治神宮は、2020年、2回目の東京オリンピックの年に鎮座100年を迎えます。        今泉さんに、明治神宮が歩んできたこれまで100年の歴史と、そしてこれから100年の未来にむけた取り組みについて、語って頂きました。初詣や折々の参拝、菖蒲園の拝観など、機会あるごとに訪れる明治神宮ですが、この講演で、その成り立ちや造営に携わった多くの人々の思いを知ることができ、さらには今後の明治神宮の果たす役割も知ることができました。    以下は、講演を聴講した記録です。

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后の御霊をお祀りするお宮として大正9年に創建され、御霊を祀る鎮守の森の「内苑」と神宮球場や絵画館などスポーツ芸術文化施設がある「外苑」、  そして、参拝のための「表参道」、内苑と外苑を連絡する「裏参道」などが一体の神宮空間として造営されました。   現在、多くの人で賑わうお洒落な街並みから、「表参道は明治神宮の参道」だと知らない人々も多いようですが、「神宮の空間」なのです。

この明治神宮の形態は、渋沢栄一ら在京の民間有志の提案で、「帝都東京にふさわしい品格ある神社を、民間の力で造りたい」という強い思いにより造営されたそうです。                 渋沢らは、明治天皇崩御の後、僅か20日間で神宮の計画案をまとめ上げました。その中で、内苑(神社)は国費で、外苑は民間団体(明治神宮奉賛会)の募金活動によって建設することを提案。さらには、現在の位置に造営することを提案して実現を見たそうです。

渋沢栄一らの「明治神宮」への強い思いは、竣工なった外苑を明治神宮に奉納する際、宮司に宛てた書状の中にしたためられているそうです。「外苑」は多くの国民の報恩によって、明治神宮に奉献されたもので、単なる憩いの場である上野、浅草などの公園とは、その性質を異にするとの一文があるそうです。外苑は公園でなく、社殿を擁する鎮守の森「内苑」と「外苑」が一体となった明治神宮そのものと説いているそうで、外苑の位置付けやあり方への思いとともに、将来の外苑のあり方を考えるうえで重く大きな指針が記載されているそうです。

現在、原生林であるかのように鬱蒼とした鎮守の森、実は人工の森なのです。この森づくりを先導したのは、当時を代表する林学者・東京大学教授 本多静六らの林学者でした。中心になった本多は、明治の早い時期にドイツに留学し、林学を学び、その知識を活かし日比谷公園など日本各地に公園を造ったそうです。 本多ら林学者は、遠くに見える煙突から立ち上る煙に、将来の都市化による大気汚染を予見していました。大気汚染に耐え、人手を加えず自然に世代交代する林相を想定し、神社林にふさわしい杜づくりを目指し、50年、100年、150年と森の推移を想定し樹種の選定と林苑構成計画に取り組んだそうです。植えられた樹木は全国から寄せられた10万本の献木によるものだったそうです。先年、鎮守の森の調査が行われましたが、それまで三度行われた毎木調査と比較したところ、概ね、本多ら林学者の想定通りに森の林相が推移しているとのことであり、改めて当時の林学者の叡智が窺えました。ただ、本多らの時代では予測できなかった「ヒートアイランド現象」による土壌の乾燥により、土壌生物の個体数の減少など、森の環境にも変化の兆しが出始めていると聞き、今後の推移が懸念されます。

さらに明治神宮造営を語る上で、大きな力として挙げなければならないのが、延べ10万人にのぼる全国青年団の勤労奉仕だそうです。全国青年団による造営奉仕運動に1道3府43県にわたる計209の青年団が、内苑のみならず外苑の造営工事にも携わり、その奉仕期間は4年に及んだそうです。さらに加えるべきことは、明治神宮造営工事に奉仕した青年たちが、その活動を記念して、のちに1人1円運動を展開して資金を集め、外苑の「日本青年館」が建てられたことです。

水沢の三傑のひとり後藤新平もまた明治神宮造営に係わっていました。内務大臣と東京市長の時に、副総裁及び評議委員として、明治神宮造営局に参画していました。明治神宮造は「明治神宮コンプレックス」ともいえる複合的な空間を創造する一大プロジェクトでしたので、そこには鎮守の森を造る林学はもとより、建築、造園、都市計画等、さまざまな専門知識や技術が求められ、当時の各分野のリーダーとなる学者や技術者が集められていたそうです。

大正12年9月1日の関東大震災発生。ご存知のように、後藤新平は復興院総裁として震災復興事業の先頭に立つのですが、そこに集められたのは、本多静六をはじめとする、これら各分野の専門家だったのです。彼らは、「復旧ではなく復興だ」との後藤の強力な指揮のもと、それぞれの分野で新しい試みを行いながら、道路や公園の整備、同潤会アパートのような新時代の住宅の整備など、先導的・先進的な復興を行ったそうですが。これも、後藤新平と明治神宮との縁によるものと言えるでしょう。

年間約一千万人の参拝者あり、近年、若者や外国からの参拝者が大変多くなっているそうで、このように文化や世代をこえて、どのように歴史を未来へと引き継いでいくのか、明治神宮の100年を振り返り、今泉さんは「まさに明治神宮は、(造営)当時の国民の思いが結集した、『まごころの森』であった」そして「(これからの)100年は、日本の文化・伝統を正しい表現で国内外の方々に発信していくことは、明治神宮自身の役割としても一層重要になってきいくでしょう」と語られました。

最後に今泉さんは「5年後の鎮座100年。時の巡り合わせの偶然か、その平成32年、2020年は、東京オリンピックの年でもあります。東京で迎える二度目のオリンピックの年、内外苑もまた国内外からたくさんの方々をお迎えすることになるでしょう。そのとき、まさに代々木の杜がひとつの中継基地として、たとえば100年のお宮から1200年のお寺へと世界からの旅路をいざなえるような、世代をこえ、文化をこえ、そして宗教のちがいをこえた『よりどころ』となることはできないだろうかと夢見てもいます。いのちに満ちたこの森で、目には見えないけれど『いますが如く』、神様を大切にまつる100年のレガシー。その心の遺産を、世界からお迎えするたくさんの方々にお伝えすることこそ、私たちができる本当の『おもてなし』かもしれません。そのための努力をこれからも重ねて参りたいと思います」と結ばれました。

                                          以上

本稿は、聴講記録メモから書き起こしたものです。講演に関連して明治神宮の造営について詳しくお知りになりたい方は、今泉さんの著書 『明治神宮 伝統を創った大プロジェクト』 (新潮社)をお勧めします。

どうして水高で逍遙歌が歌われるようになったのか 謎解き

水高応援歌などの内に元歌があることは分かってましたが、何か背景でもあるのかと思うぐらいで、特に気にすることもなかった。

元歌についての情報は旧ホームページの書庫にあります。何曲かは音付です。
参照は 水高校歌・応援歌 をクリック。

交流掲示板に逍遙歌が水高で歌われるようになった背景や経緯が 仙台ベガ さんから投稿されています。
水高新設時にさかのぼったころからの先生方や卒業生のエピソードも交えて語られています。

上方のメニューで みんなの広場 交流掲示板 から参照できます。

水沢高校関東地区同窓会第18回総会に集った皆さんの写真ギャラリー 

 2015年11月7日、水沢高校関東地区同窓会第18回総会が東京グリーンパレスで開かれ、水高同窓生や水高関係者系86人が参加しました。和やかな世代を超えた親睦と交流のまたとない機会となりました。

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 特別講演は明治神宮国際文化研究所主任研究員の今泉宜子(いまいずみよしこ)さん(=平成元年に水高を卒業)が「明治神宮―100年の森作りの歴史と未来」というテーマで講演。2020年の東京オリンピックの年に鎮座100年を迎える明治神宮の森が先人の英知と努力によって作られた人工の森で、その数奇な来歴について話し、「都市環境と自然保護の問題を考えるよい機会となりました。

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第18回 水高関東地区同窓会 写真集

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